か  ず  や      ぐうわぜんしゅう

KAZUYA no GUWAZENSHU

私は、みんながすばらしく

生きるための本を書きます。

だから私が書いたものはすべて、

読む人を元通りきれいにして

読む人のすばらしさを映す鏡です。

人として充実した人生を生き抜く

ためには、優れた言葉たちと出会

うことが大切です。

詩と寓話は、その宝庫です。 

加杜矢                         加杜矢の祭書店発刊


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10年以上続いた「おねしょ」


心で生きる。


大地震をかわす心。A





































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































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「お守り本」として

世界は人々の心の結集でできています。その心へ自作の詩や寓話をお届けすることで、大勢の心の生き方に働きかけ、世の中全体の幸福に役立つしるべ・ちから・ひかりとなりますように。  

詩人・寓話作家

  山崎加杜矢(やまざきかずや)

この世の中を作り出したのも、作り続けているのも、私たち人間の心です。世の中のすべては心が使う道具であり、何もかもが心の命ずるままに動く従者にすぎません。主人(絶対的な主導権)の座にある人間の心へ働きかけ、万物万人の幸福を目指すために、長年にわたって自作の詩と寓話を用意してきました。世界中が必要とするテキストにしようと、日夜励んで参りました。

すべての物質が分子の集まりであることは、中学生の時に習いました。その分子の並び方が、私たちの感情や意志によって自由自在に変わることも私たちは体験から知っているはずです。「病は気から」や「類は友を呼ぶ」、「自業自得」などの諭(さとし)はそこから来ていて、私たちの身体や環境、私たちの出会いや運命までもが、私たちの心を映す鏡であることは事実なのです。ならばあらゆる問題に対しては、目先の取るべき形や対処方法といった応急処置を論ずるだけでは足りません。何よりも真っ先に、私たちの心のあり方をまず論じなければなりません。心が目に見えるすべての生みの親なのですから、全ての問題の原因も心です。心が治って、心が健康になって、心が幸福になれば、目に見える全てのものも自然と素晴らしい形になり、脳裏にも自然と素晴らしい知恵や対策が思い浮かんでくるのです。

たいてい人間社会がしてきたことは、「樹木の根っこが悪くなっている」という原因は放っておいて、結果的に出てきた目に見える部分、枝葉の無数の悪さを切り取るのに四苦八苦、悪戦苦闘している。目に見えない根っこの部分は、私たちの心であり、私たちの生き方です。その根本を直さないで、次から次へ表面化する症状に振り回され、あれこれ手を変え品を変えて対応に追われているのが、現在に至るまでの状況です。根っこを丸ごと直さない限り、幹や枝葉の症状を一つ抑えても、また別の症状があちこちに出てきて、際限なく悩まされる。その繰り返しです。新しい法律も新薬も新たな施策も、全てはその場しのぎの間に合わせで、解決には至りません。同じ災難は起こり、同じ事件や事故も尽きません。

                                「色(物)即是空(心)」=「物質は心そのもの」【釈迦】        「汝の信ずる如く汝にまでなれ」=「信じたとおりの報いを受ける」  【イエス】




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ぶろぐ

特定の宗教や特定の団体に属さない私ですが、「天」や「神」という言葉の持つもともとの大切さを遠慮なく堂々と書き、読者と分かち合うことが出来れば幸いです。



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10年以上続いた「おねしょ」  令和2年3月1日(日)

(副ブログ「ほんとうによいこと」からの転載です)


と言っても、

私がおねしょしていた話ではありませんよっ

念のため(笑)。


今回書いたのは、重松昭春先生のお話が中心です。

重松先生は、10組くらい、

子供のおねしょで困っている家庭を救いました。

そのお話のあとは、塾で出会った、

生徒さんのお母さま方についてです。


以前に塾に勤めていた頃のことです。

時折、たくさんの塾の先生が集う会合がありました。

私も連れて行ってもらったことがあります。


うちの塾長と知り合いということで、

私もお引き合わせしていただいたのが

重松昭春先生です。

私がその塾に勤務している間は、

時々お声をかけてくださり、

手紙のやり取りも何回かありました。


他の塾の多くの若い先生方とも

先生は垣根を越えて大事に付き合っておられました。

励まされた人はたくさんいます。


すでに中学2年生になっているのに、

10年以上も毎晩おねしょが続く子を

治したのが重松先生です。

その後も多くの親から

おねしょの相談を受けるたび、

数日で解決してきました。

ある時などは、

評判を聞いて駆け寄った母親に、

今まで何組も治してきた事だけ簡単に告げ、

後日また会うことを約束したのですが、

驚くべきことに、その日の晩に

子供のおねしょがぴたりと止まった。

「ああ、よかった。

あの先生に頼めるから、

これでもう大丈夫」と

お母さんが安心しただけで。


つまり、安心が先決なのです。


私は、このブログで他の記事でも、

ずっと幸せな人というのは、

幸せになる前から

自分の事を幸せだと思っている人だと

申し上げてきました。

心が先なのです。

最初に心の幸福感があって、

その通りに現実が映し出されてくる。

だから、明るく強い信念を

育てましょうと言っているわけなのです。


10年以上もおねしょが続いた子供の場合、

病院、鍼灸、マッサージ、漢方薬など、

両親はいろいろ試したが何一つダメで、

宗教にもすがったが効果はありません。


3歳からおねしょが始まったが、

普通は子供の成長と共になくなるはずです。

体はどこも悪くないのだから、

止まるはずのおねしょを

わざわざ止まらなくさせている原因があると

重松先生は考えました。


重松先生は、おねしょを続かせる家庭の原因として、

2つ挙げています。

一つは、おねしょを心配するあまり、

夜具におねしょマットを必ず敷いていること。

もう一つは、おねしょを恐れるあまり、

夜半に子供を起こしてトイレに行かせること。

いずれも、

今夜もおねしょするに違いないだろうと警戒して、

恐れと不安に親が支配されてしまっていることです。


重松先生は、仏教に深く精通しておられ、

それを精神分野にも応用されています。

世の中の母親には、

次の事を知ってほしいと願っています。

人間の行動や生理には、

内面の深層意識が深くかかわっていること。

そして、子供の深層意識には

親の意識が極めて強く影響を与えること。


不自然に続くおねしょは、

親が自分の意識の上で

おねしょしているようなもので、

子供がそれを体で表現しているのです。

おねしょ、おねしょと、

いつも親が恐れおののいて、

困りきって不安ばかり大きくして、

親がおねしょに意識が集中している。

「おねしょして困ったものだ」と言い続ける。

おねしょにこだわる親の、その不安通りに

毎晩子供はおねしょするのです。


恐れや不安に突き動かされた行為として、

必ずおねしょマットを敷いたり、

無理矢理夜中に子供を起こしたりしたわけです。

この場合、これは、それをしても

決して幸せにならない思い込みです。

そのために10年も親子で苦しむことになりました。

そこを初めて重松先生が指摘なさったわけです。

お母さんの非を先生がどのように説いたか、

その具体的なやり取りまではわかりません。

しかし、

はっきりと、「それは大きな間違いです」

「してはいけません」

「するからひどくなるんです」と

全否定されてもいいと私は思います。

今までのこびりついたような思い込みを

きれいに取り去ってしまうためには、

生半可なことはしていられません。

このご家庭が、

本当のあるべき姿を取り戻すための、

愛のこもった指摘というものがあります。


決して幸せにならないことであっても

それを正しいことだと思い込んでいる人に

そのことをやめさせようとすると、

まるで自分を責め立てて

否定されているかのように受け取り、

「余計なお世話です」と

猛反発を食らうこともあります。

私たちは、間違った思い込みを指摘しているのであって、

その人の存在そのものを

責めて否定しているわけではありません。

決して幸せになれないニセモノの自分を

捨ててしまうことは、

その人のためになることなのです。

でも必死に抵抗するものを

無理強いすることはできませんから、

こういう仕事は、とても難しいことです。

その相手が、同居の家族だとか、

あるいは同じ職場の人だとか、

どうしても避けられない位置にいる場合、

その頑固さに手を焼いてしまいます。

そこであきらめることなく、

付かず離れずに、

相手のことを祈りながら

誠意を尽くして

その相手と話し合っていきます。


思い込みのために摩擦を起こして、

一番苦しいのは本人のはずで、

苦しみ抜いてやっとわかる場合もあります。

わからないままでもそれは自己責任になり、

そういう人は、

最悪の場合は家族と離別したり、

仕事なら解雇に至ることも考えられます。

思い込みの多くが恐怖と不安、

憎悪からできているので、

その通りの不調和な現実ばかり作ります。


このお母さんが10年苦しんだ挙句に、

重松先生に巡り合ったことは、

とても幸運なことでした。

お母さんは10年以上何も打開策がなくて、

もはや万策尽きて絶望しかかっていた。

そんな中、

わらをもつかむ思いだったでしょうから、

たとえ重松先生からどんな言われ方をしても

どのような指摘をされても、

素直にそれを受け入れ、

先生を信頼しようと思ったでしょうね。

今までの自分を脱ぎ捨てて、

新しい自分になると決意すること。

それが解決のためには、最も必要な姿勢なのです。


重松先生は、そのお母さんに、

就寝前の子供に

こう言ってあげてくださいと

頼んでいました。

「今日からおねしょマットを取ります。

夜中にトイレに行くこともやめます。

おねしょがちゃんと治る方法を

先生からちゃんと教えてもらったから

あなたはお母さんを信頼してくれさえすれば

それでいいのよ」と。


それだけでは、

親の不安が去らないだろうからと、先生は、

お母さんにある言葉を言うことを提案しています。

「本当に問題を解決したいのであれば、

どんなことでも実行できますか」と確認した上で、

ある言葉を唱えることを伝えたのです。


それは、お母さんに次のように言ってもらうことです。

「治る。治る。治った。ありがとうございます」と

シンプルな言葉を続ける事でした。

何心なく、毎日熱心に、何度となく、

ただ唱え続ければいいからと

先生はアドバイスしました。


10年以上続いた頑固なおねしょは、

お母さんが重松先生の言うとおりにして

たったの4日で完全に治ってしまいました。


「治る。治る。治った。ありがとうございます」は、

実はこの言葉は、般若心経の中の一節を

このお母さん用に翻案したものらしいです。


般若心経のお経の最後に

「問題は、みんなで一緒にすべて解決した。

解決し終えた。解決しきった。

めでたい。ありがたい。万歳」というような、

たいへん喜ばしい意味のところがある。

つまり、お釈迦さんが、

すでに人間は救われていますよと

宣言しているところです。

重松先生はこの部分を

「おねしょ」のケースに当てはめて、

「おねしょが治った。みんなで一緒に解決した。

解決しきってとてもめでたい」と言い直しているのです。

それをアレンジしたものをお母さんに言わせていたのです。

つまり、お母さんは、自分が知らないうちに、

お釈迦さんの最高の知恵の言葉を

何回も熱心に唱え続けていたことになります。


このことは、私の前回の記事「心で生きる」を

裏書きしてくれる実例の一つになりました。

私個人の考えでは、次のようになります。


四苦八苦とは、恐れや不安によって、

人間が作り出した思い込みであり、妄想です。

神仏の世界には不幸も不調和なことも

何一つ存在していません。

しかもあらゆる難問が解決済みの世界です。

だから、そのことを自分の顕在意識にもらってきて、

「治りました。ありがとうございます」と口に出して言い、

自分の意識の中でそのことを認めていくと、

恐怖と不安な気持ちが静まります。

なおも「治りました。ありがとうございます」と続けて、

うれしい感謝の気持ちと共に

潜在意識にしみこませていけば、

私たちを通じて

神仏の領域の知恵が実現してくるのです。

神仏の力が出てくるわけですから、

私たちの常識では考えられない治り方をする。

10年以上続いたものが、数日で消えることもあるわけです。

なぜって、神仏の世界に病などないからです。

本当につながれば消えていくのが当然です。


私は病院や薬がいらないと言っていません。

不安も心配も去って、

「良くなりました。ありがとうございます」と

潜在意識にインプットすることによって、

それを難なく実現するための

役に立つ病院や薬、名医と出会うようになるのも

神仏の世界の自由自在な知恵だと思っています。

私たちにとっては、

全てが幸せになるための道具なのです。

全てを使っていいのです。


人間の顕在意識が、神の意識と同化すると、

不幸や不調和の幻はさっさと消えていきます。

なぜ同化できるかと言うと、

人間が神の子・仏の子だからです。

その自覚は心の太陽です。

日が照ると闇が勝手に消えてしまうように、

気がつくと不幸など存在していません。


ですから、何か問題が出てきたとしても、

恐れも不安もいらないのです。

恐れや不安はお門違いの代物です。

目の前に問題が出てきて、

何のために出てきたかと言うと、

解決されたがって出てきているんです。

その問題は、私たちが、

解決して救われるための問題なのです。


神仏の領域では、すべての問題は、

すでに解決して、何事も良くなっているのです。

だから「解決しました。

ありがとうございます」と感謝して、

良くなった自分を心の目で見ていればいいのです。

そしたらそうなっていきます。

つまり、私たちの意識と神の意識が

同格になることで、幸せな状態が実現します。


問題が解決したら私たちは一段と成長して

自分を改善できて幸せになります。

そういう気持ちで安心して迎えるべきです。

「問題」とは、そういう贈り物なのです。

それなのに私たちがしていることは、

何か問題が起きると、

嫌悪感を丸出しにして、憎悪して、

恐れと心配と不安で門を閉ざしてしまい、

せっかくの贈り物を受け取ろうとはしません。

だから、

恐怖と不安が問題をこじらせてしまうのです。

最初に子供がなかなかおねしょが止まらないなと、

そう気づいたときに、

焦って心配して大騒ぎしたことでしょう。

困った、困ったと取り乱したはずです。

これは、警察にも初動捜査という

一番大切な手順がありますけれど、

私たちに何か問題が発生したときの

初動意識、初動心理というものが、

恐怖と不安で満ちていますと、

その描いた通りに災いしかもたらしません。

せっかくのギフトなのに、

ギフトの価値は失われて、

わけのわからない大騒動が続くのです。

幼い子供たちの難病と、

周囲の大人たちの心の葛藤は、

無縁でない可能性が非常に高いのです。


「問題」という、天からのギフトが

私たちの目の前に到着したら、

「ありがとう」と、感謝の念を持ってください。

感謝して、うれしいから、

私たちは問題の入った箱の中身を開くのです。

さてさて、中身をよく見ながら、

問題が何を表してくれているのか、

何を象徴しているのか、

私たちはうきうきわくわく確認します。

自分をどのように高く大きく成長させたがっているか、

楽しみながら考えるとよいのです。

そうすれば、問題の理由がわかります。

自分のすべきことを学ぶことができます。

そうすれば、その問題との出会いは、

一生の宝物のような経験になります。


問題が解決したら、物事は、

一段と向上するしかありませんよね。

前より素晴らしくなる以外にはありません。

おねしょのことでも、

おねしょがあったからこそ、

その一家は成長することができました。

だから問題が出てきても、

最初に、初動意識として、

あ、これはいいことを教えてもらえるぞと、

自分を高めるときだぞと、

ラッキーチャンスのように思うといいのです。

だからもう、問題が出てきたら、

あたふたと動じないで、

苦い顔で「困ったちゃん」にならないで、

心が先に「解決してよくなるぞ。ありがとう」と

心の中では感謝していたらいいんです。

そしたら

その祝福の通りになっていくものなのです。


「治る。治る。治った。ありがとうございます」

そう母親に言わせることで、母親の中の

不安に集中していた意識が変わり、

心の中が転換するというのが、

長く続いた問題を解決する糸口になったのです。

今までずっと、おねしょしてダメだと言う目で

我が子を四六時中監視するような思いで

見続けてきたわけですよ。

「この子は困った。この子は困った」と、

しょっちゅう言い続けてきたその目線が

違う方向に向かされるときがやって来たんです。

「治る治る、ありがたい」と

お母さんが自分でしっかり言っているうちに、

心に安心が芽吹いてきて、

ああ、この子は大丈夫なんだと

我が子の素晴らしい真実の姿に

心の目が気づく。

4日たって、治れば治ったで、

ああ、自分が動じずに安心することが

なんと大事なことだったかと学んで、

しみじみ納得するわけです。

それが家族を守っていくための

固い信念になっていくのです。


もう一つ、言い方を替えますと、

「声字即実相」(しょうじそくじっそう)

ということがあります。

人間の真実は、神の子・仏の子ですから、

「この子は素晴らしい」

「この子は大丈夫」などなど

そういう言葉を常々言うだけでも、

自分の意識が神様につながって、

それが信念になっていきますと、

常日頃からとても良い状態が実現して

絶え間なく持続していきます。


当時、重松先生と二人になった時、

「あなたはね、

いいことを思っていればいいですよ」と

私に言ってくれていました。

でもその時の若い私には、

あまり深い意味は分かりませんでした。

誰でも言いそうな平易な言葉ですし。

でも不思議なことですが、

それから長い年月が経っても、

私はその言葉を忘れられなかったようです。

心の習慣が、人生の向きを決める。

だから私も今なら人に勧めるでしょう。

「いつもいいことを思い描きなさい」と。


確かに「いいこと」といっても

いろいろあるでしょうが、

自分も人も喜べるような、

今の自分の最高、最良のもので

いいのではありませんか。

その積み重ねだと思っています。


私たちがいいことばかり思う、いい想念は、

世の中全体に漂うエネルギーなのです。

自分の健康や幸運はもちろんのこと、

たくさんの人の良い発想力を助けて、

世の中にいいことを起こす力になります。

いいことが起きれば私たちはうれしくて喜びます。

私たちが幸せな思いをすると

それが地球に伝わって地球が喜びます。

地球がいい気持ちになると、

地球環境は良好な穏やかさが加味されます。

私たちがいいことを思うって、大事です。


さて、次のお話を進めましょう。


その頃の私は生徒のお母さん方と

交換ノートをしていましたし、

家庭訪問にもよくうかがっていました。

まだ小さかった子供に対して、

自分がしてしまった失敗談を

何人ものお母さんが

私にしてくださいました。

異口同音に、

チック症を挙げていました。

なかなか

子供が思い通りにならなくて、

イライラして、

感情的な言動やふるまいが

原因だったと。


あるお母さんはお医者さんから、

「何の心配もいりませんよ。

とってもいい子に育っていますよ」と

言われて初めて肩の荷が下りて、

穏やかでうれしい心境になっていき、

子供の症状もよくなったそうです。


お母さんが安心されると、

ご自分の健康や運命はもちろんのこと、

お子さんが幸せになります。

私はあの時、

もしも私が父親なら、

不安でこわい思いを妻と子にさせないと、

よく思ったものです。

しかし、子供が手がかかる時に、

中にはその肝心のだんな様が、

倒れて入院していたという奥様もいました。

私はそういう苦労話も数々お聞きしました。

小さな子供を抱えながら

若い主婦の心の安定を保つことは、

なかなか大変なことなので、

困っているときは、

親戚一丸となって助けるべきだなぁと

思ったものでした。


誰かのかけた言葉が、

お母さんの心に響いて安心すると、

子供もよくなっていきます。

それはお母さんの心の中に、

もやもやした霧のような

恐れや不安が去って、

我が子の素晴らしい姿が浮き彫りになり、

我が子の真実の姿が

心の中に確定するからです。

多くのお母さん方にとって、

こういう経験は、とても幸運なことで、

そこから人間の心の作用について知り、

心の勉強を始めるきっかけになります。

強い心の母親になるようだんだんと

子供たちから育ててもらっているようなものです。

お子さんが大きくなるにつれて、

「何でもお母さんに相談すれば、

いいアドバイスがもらえる。

家族も親戚もお母さんを信頼していて、

私もすごく尊敬していて大好き」と

私に母親自慢する子もいました。


我が子が身をもって教えてくれた学びをもとに、

家族を愛する信念を明るくともすことができます。

その勉強に終わりはないと、

お母さん方は言っていました。

共育の素晴らしいあり方ですね。


だいたい、16歳くらいまでは、

子供は親の心にくるまれているそうです。

人間が他の動物と比べて

親への依存度が高いことが言われています。

親と一緒に時間をかけて

人間らしい心を育てていく、

精神重視の存在だとも言えます。

だから、どこにいて、何をしていても、

親の心が子供に届いて、

子供の心身に影響を与えます。

だからお母さんの子供に対する気持ちって

とてもとても大切です。


子供が外の環境に踏み出して、

学校や地域社会へ行きだすと、

我が子に対する外からの評価が入ってきて、

時には感情を乱されることはあるでしょう。

そこを親子がどう乗り越えていくか、

たいへん重要なことだと思います。

そのためにも私たちは若いうちから

「人間とは何か。いかに生きるべきか」

信念を育てていくべきなのです。

その背中をお子さんが見ています。


つまり、何か心に信ずるものが

親にできたなら、

学校も経済社会もそれらは、

自分たちの生活道具になるのであって、

それらは、私たちが優位に立って

私たちが評価するものになるのです。

すべてのことが、

私たちが生かして活用する手段にすぎなくなる。

こわくもなんともない。

子供は親を見ていて、その精神を受け継ぐのです。


学校も経済社会も

おねしょマットではありません。

こわいから、不安だから、

それにしがみついていないといられず、

他人よりも常に何枚もたくさん欲して、

何枚も敷いていたいということになると、

道具にこちらが支配されてしまうことになります。

主従が逆転していて、

監獄の囚人のように

不自由な我慢と忍耐を強いられます。

自分の人生を生きていないことになります。

そういう親の元では、

子供も無気力になっていくのです。


「この前、お母さんにほうきでどつかれた。

追いかけ回されて何発もやられた」と

塾に来て蒼白な顔で私に言う子がいました。

髪の毛をつかんで引っ張り回された子もいます。

「どうして?」

「家でぜんぜん勉強しないから」


その子たちのお母さんも

親からそういうふうに育てられたのでしょう。

今、この世は比較と競争の人生です。

それは、常に恐れと不安がつきまといます。

大勢の人たちの同じ波に乗り遅れず、

大勢と同じ列からはみ出さず、

大勢と同じように競わなくては、

自分が取り残されてしまうような

不幸を念頭にいつも置いています。


不幸になってほしくない恐怖と不安が、

子供に対して、

怒り爆発の暴力になってしまいます。

そうするけれど、ますます、

学校でも、家でも、勉強しないし、

塾まで通わせているのに、

子供が勉強してくれない。

やる気がない。言うとおりにしない。

成績も伸びない。


親がいつも不安と恐怖で思い描く、

落ちこぼれて落ちぶれる映像の通りに、

子供は今日も勉強しません。


こういう問題も、私はその原因が

「おねしょ」の一件と通ずるものがあると思っています。

不安や恐れで行動しても、実を結ばないなら、

違う方法を考え出さなければならないのです。

今までとは異なる自分の生き方を

親も研究しないといけないのです。

親にとって子育てとは、自分育て。


それにもかかわらず、

ご自分は一切変わらないままで、

忙しいし、たいへんだし、

一番すべきことは後回しにする。

やっかいなこと、わからないこと、

面倒なことは、なるだけ全部ふたをしてしまう。

「塾へ行かしているんだから、

お金払っているんだから、

成績は先生の責任でしょ。

こんな先生はプロとは言えないし、

こんな先生じゃダメだ。

うちの子には合いませんわ。

もう子供を行かせません。

もうやめさせます」とおっしゃって、

親御さんが一方的に

好きになさることができます。


こうして、親御さんの中には、

自分の立場を温存して、

あまり変わらない人もいます。

そして子供には、

しんどいことでもいやなことでも

あなたの義務だから黙ってやれと

棒でたたいて強制する。

髪の毛を引っ張ってでも言いなりにする。

やがては、

その矛盾、その理不尽さを、

子供は言い訳ばかりして動かない姿で、

知らせてくるのではないでしょうか。

お母さんよりも体が大きくなって、

反対にやり返されることになります。


しかし、私は、どんな親御さんも、

心の根っこには、

子供が生まれてくれたときの祝福が

いつまでもいつまでもあると思います。

我が子は神さまからの授かりもので、

神様からお預かりしていて、

だから神様もしっかり守ってくださっていて、

言わば、親は神さまと一緒になって、

育てさせてもらっているのであって、

この子の中に、

この子が幸せになる力がたっぷりあるから、

この子を信じていいんだ。任せていいんだ。

信じ抜こう。寄り添って手伝って支えていこう。

子供が一緒にいて頼もしい親でいよう。

親も一生懸命学んでいこう。

こういうふうに、

心の底では強く強く、

思っているのが親だと思います。

それが伝わると、

子供はしっかり成長します。

親はなんてありがたいものなのでしょうか。


世の中はまだまだ

よくしていかないといけないことがあります。

世の中はもっとよくしていけることがあります。

改善するところは山ほどあります。

それは事実です。


けれど愛された子供というのは、

親の学んできた信念が伝染したものか、

明るく大きな自信があるので、

どんなことでもそれを自分のプラスに変えて、

どんなことも自分のいい道具にして、

どんな状況も味方にして、

自分の人生につなぐ力があります。

いい意味での図太さがあるのです。

その宝物のような素晴らしい力を

最初に信じて磨いてくれるのが親です。

子供は一生その愛を忘れず、

大きくなって、

今度は自分の子供にそれを捧げます。

それもまた事実です。  (2020.1.15)




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心で生きる。  令和2年2月29日(土)

(副ブログ「ほんとうによいこと」からの転載です)



長文です・・・毎回ですよね(笑)。

少しずつでもお読みいただけたら、

とってもうれしいです。

補足として、日本を代表する実業家、

稲盛和夫さん、松下幸之助さんの言葉を引用。

稲盛さんの言葉は3つ載せています。

エジソンさんの名言も添えています。

ソクラテスさんやお釈迦さんの話も少しあります。

ダーウィンさんも出てきます。


私たちは心で生きています。

心が私たちの本体だと思います。


今日も心のことについて、

皆様に私なりの考え方を

参考にしていただければと思っています。

       







心って、「氷山」によく例えられてきました。上の絵で、

海面の上にちょっと顔を出している部分がありますよね。

この小さな三角。ここが、

私たちのふだん気がついている部分。

意識のあるところ。顕在意識と言われてますね。

この小さな三角形の囲いの中で、

日ごろ私たちはあれやこれや考えたり、思ったりしています。

人はそれぞれに自分の傾向があって、

同じ考え方や感じ方や思いを繰り返しているものですから、

気づかないうちに、心の習慣ができてます。

それが信念という心の勢力になっています。

小さな三角の中で私たちがいつもささやいている、

その信念は、その方向へ行くように、

運命に指示命令を絶えず出しています。







上の図で、海面の下に大きく広がる氷山の本体。

ここが私たちの運命をつかさどり、

信念の言うとおりに運命を実際に動かす仕事を

担当している部分です。

潜在意識と言われています。無意識の心です。


顕在意識は、まるで小さな操縦席。

その顕在意識のハンドル操作に従って、

人生の車体がその通りの方向へ走ることを、

自動的に実現させるのが、

潜在意識という動力部分です。


信念をかなえるために

必要なものは全部、

潜在意識が用意してくれます。

肉体や身近な環境など、

身の回りのものを使うことはもちろんのこと、

世界中からも実現に必要な材料を

潜在意識がかき集めてもたらします。

「親和の法則」

「類は友を呼ぶ」

「病は気から」

「同類相哀れむ」などなど

潜在意識の作用を忠告するような、

戒めや諭(さと)しは多いですね。


毎回、一生懸命取り組むんだけど、

まじめに考えて、自分なりに精一杯工夫しても、

何一つ報われず、成果が上がらないという人がいます。

間違いなくふだんの精神生活の中に原因があり、

常日ごろから「自分なんてたかが知れている、

虫けらみたいなものだ」

「自分と比べたら猿の方がよほど賢い」

「自分の仕事なんていつも牛より遅くてのろまだ」

「どの人と比較しても劣っているし、

今までさんざん負け犬みたいな人生だ」などと

自分の人間性を否定するような言い草を

ことあるごとに顕在意識にささやいてきたはず。

親や上司や先輩など目上からもそう言われて、

その通りだと思い込んで暗くなると、

ますます自分が失敗する人間であることを

潜在意識に印象付けてしまい、

何をしてもしくじります。

どんな活躍の舞台を与えられても、

それを生かせないのは、

日々の心の習慣が人生の方向を決定しているからです。

良かれと思ってやっていることでさえ、

何の報いもありません。

こういう人は、恋愛関係でも

必ずしくじります。

良かれと思って言った不用意な一言、二言で、

相手に不快感を与えてしまうからです。

それは、どんなに誠意をもってやっているつもりでも、

ふと言ってしまう言動、

ふと取ってしまう行為の中に、

ふだんの失敗する信念が

潜在意識から催(もよお)して、

口を滑らせるし、

失態を演じさせます。


では一体、どんな信念を持てば、

幸せな人生を実現できるのか、なのです。

私たちが日ごろ、信じていることの中には、

それを信じても幸せになれないものが、

たくさんあります。通念(つうねん)というものです。

それは、日常の中で、

さも正しいことのような顔をして、

常識として、一般知識として、

多くの人の中で通用しています。


遠い昔に、その通念を「ドクサ」と呼んで、

人々の心の中からドクサを

掃除してしまおうとした人があります。

ソクラテスです。

信じても決して幸せになれないドクサを

きれいにしてあげたいと思ったわけです。

で、人様の信念に立ち入るわけですから、

度胸のいることです。

しかも世間で偉い人でも地位のある人でも

ソクラテスは遠慮なくやっつけてしまって、

「あなたは何一つわかっていない」と

相手のためを思ってやりこめてしまいますので、

後世に名を遺す聖人君子になりました。


つまり、

「人間とは何か。いかに生きるべきか」という、

そのことについて本当によくわかっていないと、

人間らしい本当の信念は持てないのです。

「人間とは何か。いかに生きるべきか」について、

自分なりに粘り強くよく研究して、

腹の底からこれが良い、

これが正しいという答えがないと、

人間のこともわからないのに、

人間らしい信念にたどりつけません。

今、ソクラテスがいたら、

ほとんどの人が

コテンパンにやられてしまいます。


ですから、人間の世の中は、

物質的な面ばかり進んだだけで、

精神的な面が何も追いついていない。

これじゃ、幸せになりません。

私たちは心で生きていて、

心で人生を作っているのですから。

幸せになりたくてもなれません。

精神面を進歩させないと。


例えば人間の祖先は猿だったという

まことしやかな通念があります。

これは19世紀の科学者ダーウィンの進化論です。

この絵空事を21世紀まで引きずってきました。

猿がだんだんと背筋が伸びて、

2足歩行になっていく進化の過程の絵を

私たちは子供のころに見せられています。

しかし今もなお、サルと人間の間をつなぐような

化石は見つかっていないのです。

ミッシングリンクと指摘されていて、

同じことがキリンなどの動物にも言えます。

進化論を揺るがす指摘が数々あるにもかかわらず、

なぜ進化論に多くの人間がなびいてしまうかと言うと、

目に見える物質面の世界しか注目しておらず、

目に見えない世界を感じることができないし、

できなくさせられているからです。

こういうのを唯物思考(ゆいぶつしこう)と言い、

何でも放っておけば、そのうち物が進化して、

猿でも勝手に人間になっていくという、

非常に乱暴なこじつけになってしまうのです。


小さな子供のころから、

ありもしない漫画のような絵を見せつけて、

「お前たちの先祖は猿に過ぎない」と教える。

人間の親が猿なら、

しょせんは獣ですから、

人間の未来に

それ以上のことは望めません。

また、今の生活も猿だったころの

名残りということになり、尊敬できません。

これでは精神向上の妨害であり、

戦争も性被害も犯罪も、

猿並の人間だから仕方ないということになります。

実際、どうせ人間なんてたかが知れているという、

自分を低く見る考えが、潜在意識にしみこみ、

事件や犯罪に加担する例が非常に多いわけです。

本当の猿ならともかく、

それで私たちがとても悲しくて苦しむのは、

人間が猿ではない証拠です。

何万年たとうとも、猿は猿なのであり、

猿の役割を本能的に自然界の中で果たすだけなのです。

猿と人間とは使命も役割も違うのです。


私たちの精神面の成長が遅れているばかりではなく、

確たる立証もなしに、人間を低く貶めるような、

ドクサがまかり通っています。

人間の血筋の大本がただのエテ公だと教えられて、

それを潜在意識に持つ人類が、

猿以上の世界を作ることは困難です。

猿が良いのなら、猿になって生まれているはずです。

よほど注意深くしていないと、

ドクサはうようよしています。


さて、ここからですが・・・。

偶然この記事に立ち寄られて、

精神面を向上させるための、

何か参考になるものを探してみたいと

興味がわいてきた読者様は、

ここからさらに

読み進めてくださいね。


実は私たちの広大な潜在意識の

その奥には、もっと大きな、

無限の意識の領域がありまして、

それを「超在意識」(スーパーコンシャスネス)と

言っています。

私が言うところの、神様の領域で、

「神様の意識」です。「神様」というのは、

完全で円満で調和した、幸福な世界の代名詞です。

ですから、この意識には、神様的な愛や知恵や力が

充満しています。

私たちが顕在意識に描く日ごろの信念が

ここの意識と同格になった時、

その瞬間に脳裏にひらめきやアイデアが湧く、

ということも多くの方々が体験しているはずです。

同格になるということは、イコールでつながるということです。

すなわち、

私たちの顕在意識の信念が

神の意識と同じになって、つながることで、

顕在意識という司令塔に

神様の意識が満ちあふれることになり、

それが私たちの潜在意識に浸透し、

全知全能の神様が働いてくれたように、

人生は幸運に包まれて輝いて、

素晴らしく完全な世界が現実に作られるのです。


ですから、

神の領域、スーパーコンシャスネスと

自分の意識、顕在意識が同格になるということは、

神様の意識に、

自分の日ごろの思いや考えが一致する、

意識の格上げが成立したということです。

それが、心が成長した喜びであって、

心の成熟した人間の至福です。

神様の意識というのは、

人間はみんなが素晴らしく偉大だという意識です。

人間の意識が神様の意識と同じになることで、

大きな愛も素晴らしい知恵も奇跡的な力も

もたらされて、幸せな世の中を作ることができます。


自分だけの快楽を満たすために

そのためなら誰がどうなろうと

かまわないという幼稚な意識は、

裏を返せば、

誰かの快楽のためには

自分が犠牲になっても仕方がないという

自己破壊願望であり、

災難を呼ぶ幼稚な人生観です。

つまらない未熟な自分をよくわかっていて、

その自分を憎んでいるからこそ、

こんな自分はどうなってもいいと思っています。

もっと言えば、

自分はこんな人間ではないと、

どこかで気づいています。

だから今の自分に不満足で許せない。

その暗くつまらない世界に飽き飽きして、

苦しくて嫌になってしまうまで、

未熟な人はその世界に住み続けるのです。

「あなたはもっともっと素晴らしい存在なんです」と

気づかせてあげられたら、

それが本当の更生になります。

刑務所に服役させて懲らしめるだけでは、

なかなか改心させることは難しい。


顕在意識の中に

スーパーコンシャスネスと同等の、

同格の思いと考えを持つということは

どういうことでしょうか。

それは、

この世の全てが神の子・仏の子だと

心の底から認める感謝と祝福です。

私も相手もかけがえなくすばらしい。

自然界の全てがかけがえなくすばらしい。

それが自覚の第一歩です。

その感謝と祝福の意識を進めてみて、

何が自分の人生に

実現してくるかを実感してみてください。

「自分は神の子・仏の子だ」と言う限りは、

神様の性質や能力をすべて受け継いでいる、

私たちはみんな、神様の後継者なのです。

ですから、それをちゃんと自覚した人の心境なら、

健康やお金や人間関係、恋愛や結婚、家庭生活、

人生全般に無限の幸運をもたらすはずです。


無限の幸福は、心にしっかりと

自分が神仏と同じだと思うことから始まります。

神様が太陽なら、自分はそこから放たれている、

明るい太陽光線と同じだから、

神様と同じように幸せそのものの存在だと

いつも心に深く印象付けましょう。

日の照るところには、

闇は何一つ存在しません。

私たちには自分を高めてくれる、

いいことしか起きないのです。

毎日毎日その感謝と祝福を思うことです。


私たちの心の奥底に

神様の領域が存在していることを直感して、

それと一体になることで、

幸運を実現している著名人も多く、

世間一般の人々へ

精神面の成長を促しています。

神様の領域を感じることが大切です。

目に見えない世界を感じる心の力を

私たち人間は能力として持っているからです。

神様は宇宙全体に満ちています。

誰の心の中にも

誰のまわりにもいらっしゃいます。

宇宙全体に満ちて存在しているのです。

どこへ行かなければ会えないというような

そういう不便な存在ではありません。


稲盛和夫さん(京セラ・KDDIの創業者。

日本航空を再建した名誉会長)も

こう言っています。

「宇宙のどこかに

知恵の蔵≠ニいうものがあって、

神様が、

一生懸命努力している自分のために

その知恵を

授けてくれているのではないか、

そう感じたんです」と。

だから稲盛さんは、

日本中の経営者から

慕われて尊敬される活躍を

今も現役でされているのです。


私たちが神の子・仏の子だと言うのに、

謙遜してはなりません。

ためらう謙遜は、自分への不信感です。

「どうせ自分なんて」と幸せを受け付けないような、

自己否定は少しずつおやめになってください。


ムラがあってもなりません。

気分次第で都合次第で、ころころ変わるような、

毎日違う自己評価は、

自分を本当には愛していない証拠です。


どんなに嫌な悲しいこと、

どんなに腹立たしいことも、

寝る前に一人になって、

自分が成長できる、

いいことがたくさんやって来る、

そういう素晴らしいチャンスと信じて、

安心して寝ましょう。

潜在意識がそのように段取りします。

朝起きればもう状況は変わっています。

気持ちよく再スタートしましょう。

神様の子なのですから、

いいことしか起こらないのです。


神様の自己実現として、

どれだけ自分を通じて神様の性質や能力を

私たちが出すかが生きる目的です。

量も質も多く高く、

自分も他人も幸せに喜ばせる。

それはやりがいも生き甲斐も

最高に幸せなことなのですが、

大変な心の作業でもあります。

しかし心のアスリートのようになって、

自分は神の子・仏の子だからという

自分を大切に思う信念を強くしてください。

毎日自分の素晴らしさを言い聞かせて、

必ず神仏の支持支援のあることも感謝する。

そういう日々の、心のトレーニングをして、

心の汗をかきながら、

心の筋肉を鍛え上げていくのです。

ちょっとしたことでへこんだり、迷ったり、

自分を信じられなくなったりしないようにするのです。

そうやって心の筋肉を増強させるために、

私たちは地球人として生まれついています。

心の力を鍛えるために生まれたのです。


自分を取り巻く環境が、

必ずしも恵まれない逆境であっても、

人は心次第で苦境をはねのけて、

自分も他人も喜べる環境にしてしまうのが、

心の力であるし、

そういう心に成長させるのが、

生まれてきた第一の理由なのです。


自分を神の子・仏の子だと思って、

毎日それを思い続けて、

自分の神性・仏性を引き出すことは、

しんどい心のトレーニングでしょう。

だからこそ、

それは心を確実に強くして、

幸せになる心の力をつけさせます。

ですからあきらめないで、

粘り強く信じることを続けるべきです。

そのために生まれてきたのです。


みんな、「幸せになるために生まれた」と、

そこの部分は聞く耳があるのですが、

そのために必要な心の自覚や

日々の粘り強いトレーニングには

そっぽを向いてしまう。

楽をするために生まれたのではありません。

幸せになる力をつけるために、

この世に学びに来たのです。

地球はそのための特別合宿です。

大へんな環境の下でも、

それに負けることがなく、

神仏の子である自覚を持ち続ける。

毎日毎日、何をしているときでも、

自分は神の子・仏の子だから、

どんどん何でもよくなっていくと

自分を信じ抜くことが心の力になるのです。

その精神力を抜きにしては、

幸せの実現はありません。


私たちは神仏の子なのだからという強い自覚は、

どんなに幸せになっても幸せになりすぎるということが

ないくらいに無制限に幸せになることです。

それくらい、幸せになる覚悟をしてほしいです(笑)。

そういう資格があるということです。

それをしっかり認めるということが大切です。

そこに勝手な歯止めをかけてほしくない。

そういう我を張らないでほしいのです。

屁理屈をこねないでほしいのです。

幸せの範囲も規模も、私たちの親である神様が決めます。

神様のお考えというものがあります。

それは人間智をはるかに超えた無限の知恵です。

親のやることに対して、

子供が目先だけの口出しをして制限すると、

親の計画や思慮配慮は水の泡です。


もちろん、自分本位な利己的な願いはかないません。

そういう卑しい物は神様の領域に存在しませんから、

神の意識は反応できません。


例えば他人を蹴落とそうとする、

他人に対する敵意や他人の不幸を望む考えは、

どうなるかと言いますと、

脳科学では、脳は人称判断ができませんので、

頭で思い描くことは、

全部自分のことだと判断します。

他人の不幸を思い描く行為は、

全部自分の不幸を願うことになって、

不幸になるように潜在意識にインプットされます。

これが「人を呪わば穴二つ」の真意なのです。

逆に人知れず他人の幸せを祝福して、

他人の幸福を思い描く行為は、

自分が幸せになったこととして、

潜在意識に刻み込まれます。

「情けは人の為ならず」というわけです。


自分たち人間を神様の子孫だと思って扱うこと、

少なくともこれは、

世間一般的に通用しているような、

通念を超えたことなのです。

それでもそれを信じ抜くからこそ、

それを信念というのです。

大勢の人がこう言うからと言っても

大勢の人がこうしているからと言っても

必ずしも正しいことばかりではありません。

みんなと同じでないと怖くて仕方がない。

そういう恐怖心で流されているようでは、

恐れたとおりの末路をたどります。

それがドクサの正体です。


昔の人は、

海の向こうは滝のようになっているとか、

雷は、空で竜が本当に暴れているとか、

本気で思っていました。

それと同じように、

精神面の発展途上にある未開の現代人だから、

多くの人たちは神の子・仏の子だと言われても、

急には理解できなくて、戸惑うでしょう。

でも一方で、何か明るい兆しを感じるでしょう。

自分の本当の姿を示されているのだから。







     







上の絵は、心の一番奥底の神の意識と

小さな顕在意識が一つになった図です。

顕在意識の小さな三角は取れてなくなり、

神の意識と同じに溶け合っています。


自分は神様仏様の子供だーっ!!という事実を

確信して思う喜びが、顕在意識の

小さな三角形の狭い囲いを取っ払って、

神様の意識と溶け合って、一体になってしまった図です。

だからその無限の幸せを感じている心の図なのです。

この円はもっともっと無限に広がってます。

その中に浮かんでいるのは、

もう恐れるに足りない潜在意識という道具です。

自分のことを神様の子だと思って、

そう考えて信じているので、

幸せなことしか起こらないって絶えず考えているので、

潜在意識もその無限の幸せの指示命令通りに、

どんどん幸せを量産するしかありません。

百通りも千通りもいろんな幸運を

毎日形にして実現化してくれるわけですから、

実現化待ちの幸運が長い列を作っていて、

潜在意識が小さいくらいです。

神の世界の無限のいいこと、よいこと、

素晴らしいことを形にするために、

うれしそうにフル回転しています。そういう絵です。

この絵のことを

サンテグジュペリの「星の王子さま」みたいに

「ねえ、何に見える?」と聞いてみたいです。


この絵を描いた本人の私は、

「太陽のお鼻」だと思ってます。

太陽が呼吸して生きているイメージ。

それが私たちです。


再び稲盛和夫さんの言葉を引用しましょう。

「美しい心を持ち、夢を抱き、

懸命に誰にも負けない努力を重ねる人に、

神はあたかも

行く先を照らす松明(たいまつ)を

与えるかのように

知恵の蔵≠ゥら一筋の光明を

授けてくれるのではないでしょうか」

そしてさらに、

「常に明るさを失わずに努力する人には、

神はちゃんと未来を準備してくれます」と

稲盛さんは言っています。

今年88歳の日本の高名な実業家の言葉ですから、

経験値から出ている実体験なのです。


この世のどんなお仕事も

世の中の大勢の人を相手にするわけですから、

「人間とは何か。いかに生きるべきか」を

究めないといけないのです。





こういうようなお話は、

お家や学校で、

親や先生から子供のうちに

聞いておきたいのです。


しかし、物質の奪い合いと快楽の追求が

何よりも優先される競争を調教されたために、

互いに憎悪して蹴落とすことを植え付けられました。

物のように人を点数化して順位付けしました。


精神面の成長を放りっぱなしできたために、

簡単に恐怖や不安や怒りで支配され、

振り回される世の中になっています。

自殺や事件や犯罪はなくなりません。


早い人なら、小学生の時に、

親や学校は何も教えてくれないと、

失望するはずです。


子供の中には、人間らしくなりたいという、

成長エネルギーがあふれています。

心の栄養に飢えていると言ってよいのです。

なのにその希求を満足させるような、

精神的充足がないと、

学ぶことが生きることに直結している子供にとって、

死活問題なのです。苦しいのです。

満足できないで

抑圧されたままの成長エネルギーは、

必ずしも健全な状態で保たれているわけでなく、

暴発しない保証はありません。

だから、

学校が原因で子供が荒れるのは自衛行為です。

そもそも人を人らしく育てるはずの学校で、

子供の人間性を育てられないことは、

もしくは踏みにじっていることは、

子供にとってこんな不幸はありません。

不幸な目にあわされて、荒れないほうが

おかしいのです。


今の学校教育は、

経済優先の政策に偏っているがために、

経済競争に向く人間だけを作ろうとしています。

それは教育ではありません。

調教です。


本来の学校は、民間に全権が委ねられ、

人間の子が、人間らしく育てられる聖域です。

それを侵害することは何者にもできない。

子供は、経済戦争のための兵隊ではありません。


それを小学生のころから

すでに気づいている子もいるわけです。

人間だから人間になっていこうとするのに、

学校がそれを助けるどころか、

意味のないことばかり押し付ける。

栄養のない、おいしくない物だけじゃなくて、

石まで食べろと強要する。


ですからね、

学校のことは、親も一緒になってうるさいですから、

適当に合わせておいて、

本当に人間の勉強がしたい子供は、

自分で勉強することを始めるのです。

独学ですね。自学自習です。

共鳴する友人や先生が見つかったら、

それはそれでうれしいことです。


人間に生まれたのだから人間になりたい。

これは当然の欲求であり、成長意欲です。

花が花になろうとして、芽を出すようにです。

これを阻害するなんて生命に対する冒涜(ぼうとく)です。

生命が生命のままに伸びていこうとしているわけですから。

ただ、花に水や光が必要なように、

人間にも人間になるための水や養分や光が必要です。

人間の勉強が必要です。


車を安全に運転するのにも、資格が必要です。

私たちは教習所に通い、免許を取ります。

そうしないと、路上はルール無視や違反の車で

ごった返し、事故や衝突で交通マヒになります。

それと同じように、本当なら、

人生をうまく操作して、

みんなが安全に生きられる、

資格や免許が必要なはずです。

それがないから、私利私欲に走り出して、

行き詰まった世の中はマヒしています。

とうとう地球環境までおかしくなってきた。


私が「人間とは何か。いかに生きるべきなのか」

本腰を入れだしたのは、高校生の時。

悩み苦しむ毎日の中、手当たり次第に本を読みました。

精神的苦悩の深さは相当なものです。

人間なのに、

人間に生まれたのに、

人間のことを何もわかっていない。


ですから、相当な心の磁力で、

手がかりになるものを求めていました。

どこにも書いていない。

どの先生も答えられない。

これは、今もそういう問題です。

それは、日本の国が何の答えも見つけないまま、

そういう段取りをしないまま、

ただやみくもに利益追求をしてきた、

社会的な背景があります。


それで、この問題、

「人間とは何か。いかに生きるべきか」ということは、

クイズの回答みたいに、

あるいは学校のペーパーテストみたいに、

丸暗記したような解答ではないんです。

だから、そういう勉強しかしてこなかった、

そういう日本社会においては、

答えられる人はなかなかいません。


また、その解答というのも、

一般常識的な、または道徳的な、

誰もがどこかで聞いたような説教じみた、

ドラマのセリフのような、

そういう、誰もがわかる範囲の

通俗的で日常的な事ではなかったのです、

今から思うと。


私自身の独学で

精神科学や哲学の本を読み続け、

自分の見慣れた言葉、読みなれた言葉として、

「神の子・仏の子」と、ここに書いています。

こういうのは、

今の多くの親や先生や、

世間一般の常識からは、

とてもお目にかからないような、

ふだんは口にもしないような、

そういう言葉です。しかし、

「人間とは何か。いかに生きるべきか」

その「答え」を説明するためには

必要になってきます。


つまり、今やいろんなブログで

お見かけするような、

「高い次元の」話になっていくので、

もしも「人間とは何か。いかに生きるべきか」

必死に問い続ける人があるとしたら、

その人は、高い次元の話を受け取れるだけの、

そういう精神的な準備を運命からさせられます。

運命から導かれて、

自分の精神土壌を豊かに耕して、

高い次元の話を自分のものにできるだけの

土台作りの成長をさせられます。

そのために必要な本や人や出来事との出会いを

与えてもらえます。

「人間とは何か。いかに生きるべきか」を

問い続けて、純粋に誠意を尽くして問い続けて、

答えを授かる準備にも時間と労力を惜しまず、

そうして少しずつじわじわと、

季節が巡るような感覚で、

答えがわかってくるのです。

ピンとくるのです。

そういうものなのです。


だから、

そこをちゃんと経てきた人と

飛ばしてきた人とでは、

なかなかすぐには話の折り合いが

つきにくいです。

例え肉体の年齢が上であっても、

魂の年齢は未熟な場合もあります。

「人間とは何か。いかに生きるべきか」

この問いを前にして、

人間としてどれだけ答えられるか、

それで自己判断できると思います。

私たちは人間として生きているのですから、

答えられないと具合が悪いわけです(笑)。

魚だって生まれたらすぐに

魚らしく泳いでいるじゃありませんか。

人間に生まれていながら、

人間のことがわからないなんて、

それは、無免許で車を運転するようなものです。

けれど人類はそれをしてきてしまったから、

様々な混乱や破壊を招いています。

「後のことは知らん」ではなくて、

今多くの人々が

もう一度、誕生したときの原点に戻り、

「人間とは何か。いかに生きるべきか」

自分の中に問うチャンスです。

みんな人間なのですから、

問うて、問い続ければ、

自分の中に答えがある。

運命が必要な助けを授けてくれて、

自分にとってわかりやすいような

本や人や出来事を与えてくれます。

そうしないと、

平和や幸福について論ずるときにも、

お互いに言っている次元が違うので、

バラバラになってしまうのです。


この世はみんな、

神仏の表れだから、

すでに救われて幸せなんだと、

お釈迦さんが気づいたときに、

ああ、いろいろあったけど、

ようやくわかったから、もう思い残すことはないと

お釈迦さんは死んでいこうとしていました。

あばら骨の浮いたような、悟った直後の

やせ衰えた釈迦像もありますよね。

眠るように死んでいこうとしていた。


ところがそこに天の使者が来て、

「待ってください。あなたの境地を

万人に広めてください」と言う。

真実の教え、真理を、

私物化してほしくないと言うのです。

みんなに、みんなが神仏の子だという事実を

伝えて広めて、みんなを救ってほしいと頼まれます。

お釈迦さんが「え!?」と思う間もなく、

さっそく、

若い人が弟子になりたいと申し出て、

お釈迦さんに食事を捧げます。

だから本当に悟った人というのは、

大勢に伝える使命がありますし、

自分でもそのことを強く感じますし、

自分のまわりで、

いろんな力がそれを支持応援して、

その仕事を支えてくれるのです。

ですから、

人間の神性・仏性について語り、

人間の精神性を説く人たちには、

耳を傾ける価値があります。


エジソンさんの名言を一つ。

「天才とは、1%のひらめきと

99%の努力だ」と。

こういう言い回しで私たちの子供の時には習いました。

だからお前たちも努力しろよと言わんばかりの

努力に重きを置く言い方ですよね、これでは。

でも実は違っていたのです。

本当のところは、

「1%のひらめきも得られないようなら、

99%の労力は全てムダになる」です。

努力だけが大切なら、100%努力だと

言っているはずです。

あきらめないで努力しつづける人は、

神様の領域から必ずヒントを授かることを

信じるからです。

松下幸之助さんも

「成功するまで続けることが成功の秘訣」と

言っています。

続けるうちに、必ず超在意識から

ひらめきが来る。

その時を待っているわけです。


思わぬひらめきや直感、霊感というのは、

超在意識(スーパーコンシャスネス)という

神の領域から人にもたらされる、

全知全能の神仏の愛であり、

知恵であり、力です。

これが少しも得られない、

または得ようともしない事業など、

何の意味もないと

成功者たちは言っているのです。

神の領域から宝物を引き出せる者は、

神の後継者である、神仏の子供だけです。

普段からその自覚がある人間だけが、

宝の扉を開けるカギを持つのです。

エジソンにはそれがあったはずです。

エジソンが、霊界など、目には見えない世界への

探求心があったことも明らかにされています。

だからこの名言を残しました。

ただ、エジソンは外国人ですから、

彼の言葉をちゃんと日本語に訳す人が、

エジソンと同じ自覚がないと、

的外れな部分を強調したような、

変な訳をしてしまいます。


どんなに素晴らしい外国人の本も

日本語に訳す人の能力にかかってきます。

読めばわかります。

あれ!?と感じる部分が多いのです。


今年も皆様のご多幸を祈っています。

ここまで読んでいただき幸せです。  (2020.1.8)



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大地震をかわす心。A  平成2年2月28日(金)

(副ブログ「ほんとうによいこと」からの転載です)



今日も来てくださって感謝です。


「大地震をかわす心」とは、

どんな災害も、日ごろの心がけ一つで

避けて通ることができると固く信じる私のモットーです。

すでに阪神大震災はそういたしました。

その阪神大震災も来年1月で25年になります。

その時の体験談をほんの少しだけ、

この「大地震をかわす心A」に載せました。


今回も長いですが、少しずつでもどうぞ。


大地震を小動物や虫などが感知して

逃げ出していなくなるというような話をよく聞きます。

そもそも人間がこの世に登場してから、

生き物にも生きづらい世の中を押し付けているので、

姿を消していく生物の種類は増える一方です。

その上に、人間の心が引き起こす、

天変地異までお付き合いさせられては

とてもかなわない、ごめんだと言って、

生物たちはどこかに引っ込んでしまう。

生き物たちもわざわざ被災するために

存在しているのではないからです。

彼らもそのために作られたのではありません。

生き物だって全部が、

自分の使命を思う存分果たして、

幸せになるために生まれています。

だから自分たちとは合わない、

おかしな不幸の波長を人間たちが起こすと、

その異常にすぐに感づいて

さっさとどこかに隠れたり、

避難していると思われます。


「山川草木国土悉皆成仏」

(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)

全ての人間も全ての生き物も全ての自然も

全部が神仏の表れであって、

神の子、仏の子なんだとお釈迦さんは説きました。

みんなが幸せに生まれついています。

だからその事実をしっかり自覚する心でいれば、

私たち人間は幸福になるしかないんです。

そう思ってハッピーになることです。

私たちが、とても幸せでうれしく喜べば、

その気持ちが生き物たちや地球に伝わって

地球全体が幸せでうれしいのです。

地球も喜んで安心すると、

地球の活動自体が穏やかに安定します。

自然界も優しく和やかになる。

私たちの心が幸せで明るい、

穏やかな雰囲気を作れば、

恐ろしい怒り狂ったような、

天変地異など起こりようがありません。


もともと古代の日本人は、

人間同士もお互いに「○○の尊(みこと)」と呼んでいて、

神仏につける敬称を用いてお互いに呼び合う時代が

長くありました。このように、

お互いを神の子、仏の子として敬い、

ていねいに尊重して扱うということは、

今の国民にも脈々と引き継がれる遺伝子です。

とくに国外から旅行に来る人たちは、

日本人の品のある細やかな配慮、

行き届いた気持ちの良い心遣いに魅了されるのです。

その心づくしのおもてなしは

古来から継承された精神的風土ですし、

日本の数千年にわたる文化なんですね。

誰が来ても、本来的に相手を素晴らしいと思える、

常に敬意を表する真心からの親切ができる。

八百万(やおよろず)の神を祭った寺や神社の多さも

海も山も大地も川も自然界の全てが神仏の表れだと

感謝して尊敬してきた日本の伝統です。

その日本の心を今一度、改めて見直すことで、

私たちは本来の美しさと豊かさを取り戻し、

素晴らしい人生を作り出すことができます。


精神科学においては、

自己啓発やスピリチュアルなど、

多くの本も出回って、

自分を大切にしていく心の重要性が

異口同音に説かれるようになりました。


では、私たちの心の中に何を入れるべきか、

何を思い出すべきかを言う場合、

私は日本の伝統文化としても、

自分を神仏の子として尊敬して、

素晴らしい存在として認めることが

何よりも優れた心のあり方だと思います。

それでこそ、相手の中にも神性、仏性を

見ることができるのです。

自分を大切に敬えてこそ、

他人を大切に拝む感謝も生まれます。

そのことが、自分の人生とこの国を

幸せにする、最高の心だと思います。


また、この先、70億人の世界全体が、

幸せの空気を醸(かも)すために、

まずは一人一人の心の中の幸せづくりが

とても大事なのです。

心がふっくらと

幸福の雰囲気ではちきれそうになる。

心がそうなってこそ、この世にたくさんの幸せを

かなえて招くことができます。


特に、こまやかな愛と親切の、

心遣いを得意とする日本国民は、

みんなが自分の立場で、

それぞれに想像力豊かに、

幸せな気持ちをふくらませることができます。

幸せ大国ニッポンを目指しましょう。


そのためにも幸せを呼ぶ基本の一歩目は、

「待つ身のつらさ」ではなくて、

「待つ心の楽しさ」でしょう。


いいことが来るのを

何もしないで待つばかりで、

受け身でいるのは得策ではありません。

何かいいことがあってから、

何かいいことをしてもらってから、

その時だけ感謝してあげてもいいなんて、

そういう横柄な態度でいると、幸せは、

宝くじに当たるよりも確率悪いです。


何かいいことが偶然にやって来るまで、

待てをくらった犬みたいにイライラと、

苦虫かみつぶしたような、

こわい顔した不平不満の心には、

近寄りがたい不景気な感じが漂います。

そういう陰鬱(いんうつ)な雰囲気だと、

きっと幸福も敬遠して、寄り付きません。


いつも幸福の団体様でごった返す人生を

生きる人の心の中は、幸せのお客様たちが

どんどん入ってきやすい雰囲気ができてるってこと。

お客様は自分にふさわしい、

自分の性質と同類の似通った場所を好まれます。

幸福のお客さんが入りやすい好きなところは、

すでに幸福の雰囲気ができているところです。

そこへ一目散にひきつけられてくるのです。

だから古い心のガラクタを掃除して整理して、

とびきり幸せな明るい元気な飾りつけを

心の中いっぱいに前もって用意して、

幸せだなぁーって雰囲気を強力に

出し続けていなければなりません。


とにもかくにも、

私たちは、神仏の表れですから、

私たちは神の子、仏の子です。

全員とても偉大で、尊敬に値する存在です。

とても幸せな存在なのです。

幸せにしかなれないのです(笑)。

そのような幸福感で満ち足りた心が

現実の幸福を呼び込むのです。

幸福な人は、幸福が来る前から幸福なのです。


私たち人間は、

神仏の子供ですから、本体は霊的な存在です。

私たちの本体は、目には見えない心なのです。

心の力で、なりたい自分をイメージして、

いつも幸せな気分でいると、

健康や幸福な環境を

自分の心で好きなように作ることができます。

心が私たちの操縦席であって、

心が主導権を持っている。

何でも心に自覚した通りに、

肉体でも環境でも、

心の通りに映し出されてくるのです。

肉体も環境も、

心の思った通りの形になる材料なのです。


心の中身が現実に出てくるのですから、

何よりもまず、最初に、

心の中が幸せでなくっちゃいけません。

心の中を我慢したり嘘をついたりして、

放り出して棚上げにしてしまうと、

全てが台無しになります。

一番大事なのが心の中です。

心の中に

すごく幸せな気持ちが込められていないと、

私たちは幸せになれません。

自分の心の中の事ですから、

自分の心を自分の力で幸せにしてください。

幸せな気持ちを今すぐ満たしてください。

そうすれば、朝、太陽が出たときみたいに、

現実の人生も光り輝くしかない。


だからまず、自分の体や環境のために、

素晴らしい幸せな自分をイメージして、

幸せだなぁーって毎日感謝して思うことにして、

幸せな雰囲気を盛り上げて漂わせることです。

それが、

自分もまわりも

みんなが喜べる幸せづくりの始まりです。

心の明かりをつけるのです。

自分の心の中の事ですから、

自分でスイッチ入れないといけません。

入れたことがないと、最初は、

誰にも頼れないから大変に思うかもしれませんけど、

一度つけた明かりは、そのまま自分が切らなければ、

永遠に照らして明るいままです。

自分次第という自由は、人生の素晴らしい魅力です。

心のスイッチ一つで、

自分が望む幸せが次々と実現するからです。

ですから、

心の明かりをどんどん明るくしていくべきです。

自分が神仏の表れであって、神仏の子なんだと、

自分もまわりも常に勇気づけて

心の幸せな気持ちを絶やさないでいることが

とても大切です。

心の明かりは不幸の闇を許しません。

その心の輝きには、どんな災いも近寄れません。


例えば、新陳代謝によって、全身の細胞は、

いつも小学生並みの年齢です。それなのに、

そこに老化現象を起こさせるのは、

年取って老いてしまったという気持ちであり、

もう老人だからだめだというあきらめです。

自分が劣化して故障したのだと、

まるで自分を物のように扱う心が、

その通りに老けさせます。

私たち人間は物ではなくて、

心を持った、心が本体の存在なのです。

心に自分の年齢を全く意識せず、

いつも何か目標に向かって希望を燃やし、

いきいきと情熱的に生活している人は、

いつまでも若々しく健康です。


それから、健康番組や薬の広告なんかで、

菌やウイルスがこわい、こわいと思わされて、

必要以上に警戒しすぎる心労もどうかと思います。

菌類も、もともとは大人しくて無害なものも、

人が恐れるあまり、その恐怖心に感染して(笑)、

毒性を持つにいたる場合があります。

人間の体内にも菌はいるわけですから、

くれぐれも激しい感情には注意すべきです。

怒りを爆発させる激高(げきこう)によって、

唾液や血液中に毒素を生じることは

良く知られています。

だから、腹が立っているときに

ものを食べないようにしなさいという忠告も

昔ながらの教訓です。


この世に恐怖すべきばい菌が、

うじゃうじゃまわりにいて、

そのばい菌のせいで、

理不尽な病気にかかってしまうという恐怖は、

その通りになります。恐怖心によって、

体全体が委縮してしまうからです。

正常な免疫力も働かなくなります。

まわりの環境を恐れず、けんかせず、

仲良く気を許して、菌がいる事なんか、

かえってふだんは忘れているくらい、

リラックスした明るい気持ちでいるほうが、

人は一番健康でいられるのです。

通常の衛生管理で平気です。


冬場は、淡々と普通に手洗いうがいをして

普通にマスクしていればいいと思います。

マスクもどちらかと言えば

防寒と保湿が主な目的です。

表や家の中に悪い菌がうようよしているだとか、

服とか手にウイルスがこびりついているとか、

悪い想像ばかりして神経質になりすぎて、

恐怖心を抱くことはかえってマイナスです。

そのせいでその通りに感染してしまいます。

菌もウイルスも地球上に共存する仲間です。

彼らもみんなのために仕事をしていますから、

いてくれないと困る友達です。

その友達が悪さするというのは、

人間のほうにも問題があります。


こわい、悪い、と一方的に、

私たち人間から

むやみやたらと嫌われてしまうと、

相手もいい気がしませんし、

ちょっかいをかけたくなるものです(笑)。

万物の長(おさ)、人間は万物のリーダーです。

もともとすべての物と人間は調和していて、

人間に損害を与える物などありません。

人間が猛烈な敵対心や恐怖心で、

相手の事を誤解したときのみ、

敵でない物が敵に変わって争うのです。


「嫌だ」、「こわい」と、心に不幸せを描くと、

その通りになりやすいのです。


情報番組や広告を真に受けて、

何かにつけてびくびくして、こわいこわいと

敵を増やした過敏で過度のストレスは、

正常な免疫能力を失わせています。

病気の原因はそういうストレスであって、

正常な精神状態ではなくなり、

体内の正常な免疫効果を弱めます。


恐怖心というのは、

ものすごい集中力で不幸を思い描く、

暴走した心の汚染です。

繰り返し何度も激しく暴れまくって、

こわい未来予想図を強く刻み付けます。

潜在意識はそれを鵜呑(うの)みにして

必ず実現してしまいます。


「大地震をかわす@」で、

潜在意識の中に、人類意識という領域が

あると申し上げました。

その名の通り、

人類が、正しいと思い込んでいることが、

いっぱい堆積している意識の領域です。

その意識のプールの中にすっぽりと

私たちは沈み込んでいる状態です。

みんなが常識だと思い込んでいる中には、

多くの迷信もあります。そういうプールに、

私たちの全身が浸(つ)かっている状態です。

だから、そのままでいれば、

人類が信じ込んでいる通りに、

自分の人生もなってしまう。

例えば、

病気になるとか、老化するとか、

人間ならそれは当たり前で、

人間はそういうもんだと世界中で信じている。

そういう雰囲気に流されてしまって、

気を許してしまうと自分もそうなるのです。

いつまでも若くて、病気知らずで、

病院になど行ったこともないという人もいます。

そういう人は、独自の精神生活が確立されていて、

人類意識に染まっていないのです。

「人間に四苦八苦などない」と言ったお釈迦さんは、

その代表的な一人です。

生・老・病・死・罪・・・

そういう四苦八苦など、気の迷いに過ぎないとしています。


ちょっとここで余談になりますがお許しを。

「死」についてですが。

お釈迦さんは食あたりで亡くなりました。

よくキノコ料理が原因だと言われていますが、

キノコに当たったかどうかはわかりません。

新しい弟子から捧げられた食事が、

食べる前にすでに、

食べてはいけない物だということに

お釈迦さんは気づいて、

他の者が食べないように、

自分の分以外は捨てさせています。

穴まで掘って埋めさせたらしいのです。

その辺の詳細が「ブッダ最後の旅」(岩波文庫)にあります。

とすると、死ぬとわかっていて食べたことになります。

同様に、ほかの三大聖人の末路なのですが、

イエスさんもソクラテスさんも、

逃げ出そうと思えば充分に余裕でできたらしいのです。

なのに逃げずにイエスさんは磔(はりつけ)にかかり、

ソクラテスさんも毒を飲まされることになります。

どうやら、わざと、

この3人は、大勢の人に自分が死ぬところを

一部始終見せたのです。

人間の死について、それがどういうことか、

自分の身をもって最後に示したと言えます。

大へん不謹慎な言い方にはなりますが、

3人は、満を持して、絶好のタイミングを見計らって、

用意周到に自分たちの死を見せたのです。そして、

自分の死を教材として後世に遺したのです。

この3人さんだからそれができたんだと思います。

彼らの死にどんな意味があったか、

何を伝えようとしていたのか、私なりの意見を

今ここで書くともっと長くなって終わりません。

もし別の機会があったなら、書くことにしたいとは思います。

ぜひ皆さんもいろいろ考えてみてはいかがでしょう。


肉体は、私たちの心が、

この世でいろいろな経験や勉強をして、

自分の成長になることを楽しむために、

私たちが授かったとても大切な道具です。

心がその経験や勉強を生かして、

自分の幸せをかなえていくにも、

肉体はかけがえない役割を果たしてくれます。

だからできるだけ感謝して大事に考えて、

健康を保って長持ちさせたい。

私たちの本体は心です。

いずれいつかは、みんな、

この世での素晴らしい学びを終えて、

心が肉体を離れる時が来る。

死とはそういう卒業式みたいなものでしょう。


さて、仏典の言葉に戻ります。

「三界は唯心の所現」

(さんがいはゆいしんのしょげん)とあります。

全てのあらゆることが、

人間の心の表れだと言っています。

この世の中は、人間の心の写しです。

自分の肉体も環境も自分の心の写しです。


世の中も何もかも、

どういう世界に作るかは、

人間の心にかかっていて、

人間がリーダーなんだと言ってます。


神仏のように作られた私たち人間は、

まずそのことを自覚するのでなくては、

その真価を発揮できません。

私たちは自分もまわりも

幸せにする能力を発揮するために

この人生を授かっています。

そういう輝かしく立派な

神性、仏性が人間の中にあって、

それが私たちの本性です。

それを生かすことが生きがいなのです。

自分を愛するというのは、

こういう自分の本当の姿を知って、

それを大切にするということです。

自分を尊敬して大切に思う心でいれば、

自分を傷つけるあらゆることから遠ざかり、

あらゆる天変地異からもすり抜けて、

縛られない自由な立場でいられます。

人間は神仏の子なのですから、

完全で偉大な存在として、

本当に幸せになるしかないのです。

それが信念として自覚されれば、

親である神仏との絆が明らかになって、

神仏とつながる気持ちも強くなって、

神仏に確実に守られることになります。

そういう人は傷つかない。

何にも傷つけられることがない。

神仏の世界には、

病気も生活苦もないし、

災害も災難も存在していないからです。


私たちは神の子、仏の子です。

神仏を太陽だと例えるなら、

私たちはその光です。

神仏の完全で調和した幸せの光を

それぞれに表現する個性的な存在です。


「天上天下唯我独尊」

(てんじょうてんがゆいがどくそん)と

お釈迦さんが言った通り、人間は、

幸せを生きる尊い存在なのです。

人はみんなこの世にたった一人しかいない、

かけがえない人生です。

だからその人にしかできないことがある。

神仏は地上の豊かな幸福のために

その人を地上に寄越しています。

この世の幸せを増やすためには、

その人の力がどうしても必要だからと、

神仏から強い要請を受けて、

私たちは地上に派遣されています。

だからそれを自覚すれば、誇らしくなって、

すぐ身の回りに幸せを実現するような、

その実力も能力も出てくるわけです。

そういう、お互いが神仏の子で、

素晴らしい存在であると認めて、

尊敬できるような幸せな気持ちが

心の中に必要なのです。

この気持ちが理解されていくなら、

お互いを差別区別することはなくなり、

経済競争でお互いを踏みにじることも

やめていくに違いありません。

他人を見下したり、

他人をねたんで憎んだり、

そのように人間を軽蔑するような

優越感も劣等感もなくなるのです。


「天上天下唯我独尊」は、

お釈迦さんが自分だけが偉いんだと、

独裁権力者として言っている言葉ではありません。

権力者、支配者になりたいのなら、

王位の継承者、王子の立場を自分から

捨てることなどしなかったでしょう。

そこには自分の幸せがないと判断したのです。

お釈迦さんは人間の本当の姿をつきとめて

自分もみんなも幸せにしたかったのです。

だから、「天上天下唯我独尊」は、

本来の人間の姿を言っています。

みんなが生まれながらに素晴らしい存在だと

言っているのです。

仏教学者さんもこの場合の「我」は、

私たち人間の事を言っているとしています。

「唯我」は、

私たち人間だけに託された、

それぞれの人の使命のことだとしています。

それを果たすことが素晴らしく尊い価値があると

言っているのです。

つまり自分もまわりも

みんなを幸せにする能力がある。

それを果たすことが使命で、

そこに幸せな生きがいがあるし、

それを生きることで、

神仏からも守られます。

人間が喜べば、生き物たちも地球もみんなが

しみじみと穏やかに微笑んで安心します。

波乱も破壊もないような、

みんなが幸せな世の中になるのです。


神仏とは「完全・円満・大調和」であり、

幸福と繁栄しかない世界です。

私たちは神仏の家に生まれた、

神仏の跡取り、神の子、仏の子なのですから、

幸せになるしかない。

そういう人生に対して感謝できて、

そういう自分を心から祝福できることが

今一番求められています。

そうすれば、明かりをつけたように、

暗かった不幸は消えてしまう。

不幸なんてもともとないものだから。

暗くてつらかったのは、

心に明かりをつけなかっただけなんです。

心に明かりをともせば、

そこには自分だけが使えるような、

個性的な豊かな愛も

自分らしい素晴らしい知恵も

何でも用意されていて、

どんどんそれを多用することで、

富でも人間関係でも幸せが

満ちてくるわけです。

神仏は人間を幸せにしてあげたいと

そればかり考えています。

だから、そのお気持ちに乗っかって、

安心して、自分らしく、大船に乗ったつもりで、

幸せになることばかりゆったりと気持ちよく

考えていればいいんです。

いいことばかり考えるのが幸運の秘訣です。

そうすれば幸せの方向へ

幸運の流れはどんどん強く流れて

何でもかんでも良くなっていく。


イエスさんも

困って悩んで落胆している人たちに

「神にすべてを任せよ」と言っています。

状況がなかなか動かないようでも、

私たちは固まった心をやわらかくほぐして、

必ず良い方向へ行くと信じて任せて、

凍りついている心に笑顔を取り戻すのが

とても大切です。

幸せだから笑うのであり、

その笑顔が幸運を連れてきます。

そうすれば、

時間がかかっても、こつこつやっていれば、

いい方向へ動いていることに気がつく。

一時期の停滞も

幸運を育てるチャンスになります。

自分らしく幸せになることばかり、

いいことばかり、希望にあふれて考えていればいい。

一生の信念としてそういう幸福感を

持ち続けることが肝心なのです。

神仏の世界にいる自分を

神仏に守られた自分を

感謝と祝福で

いつもしっかり認めてください。

それが先決です。


そこには「被災」なんてものもない。

不幸を生きるために

私たちは作られていません。

神仏の素晴らしい世界を表現するためにこそ、

私たちは生かされています。

富も成功も健康もあらゆる幸福と繁栄は、

神仏の世界にいる感謝と祝福が

自覚されていてこそ、もたらされるご褒美。

そういう信念がなくて、

恐れや焦り、不安や憎しみを

心の中にいっぱい置くから、

その苦しみにゆがむ心が、

不幸を映して出しているだけです。

神の子、仏の子という、

自分の真の正体を知らないで、

悪夢にうなされている心が原因です。


だからと言って、すでに被害を受けて

難儀して困っている人を前にして、

そういう人を責めるような理屈は

私もなるべく控えなければなりません。

何かを説くことも、時と場所を選ばなければ、

暴力と同じですから。

いくら良かれと語ることでも、

相手の状況を見ないような、

知恵のない愛は、

何の役にも立たないでしょう。


苦しいときは助け合うのが人の道です。

それは絶対にそうあるべきです。

だから被害にあわれた直後の方々には

心と体の安静と応急手当が最優先。

被災者の方々に対しては

あまり不謹慎な言動は遠慮すべきでしょう。


しかし救助、救援の作業が一段落して

生命の安全が確保され、

気持ちが落ち着いたときに、

次にできるだけそういう目に合わないように、

心の事も知っておく必要があります。

災害や災難をかわす心について。


他人にも、行政にも、

金銭の補助や物資の救援はある程度できても、

「被害者の立場」から脱して力強く立ち上がり、

人生を立て直す決意はご本人にかかっている。

こんなことでは負けまいと、

かえって苦境をチャンスにするくらいの希望をもって、

自分は幸せになるしかないのだと、

自分の心に神の子の信念を育てることを

被災した機会にこそ思い立ってほしいのです。

時間がたってから、

あの時の経験が良い勉強になったと

宝の思い出になるように。


マスコミによる被害状況の放送も

重要なことではありますが、

災害の真っただ中にいても、

無傷で無事にすり抜けた人たちの、

その精神性にも少しはスポットを当ててみたら、

案外その生きざまの信念に

共通したものを見つけられるに違いない。

それを精神科学と言うのです。

無事な人々を運がいいだけと済ましてしまうから、

心の持ち方について何も学ぶことがなくなる。


助かるのには助かるだけの理由があります。

心の中に。


私が阪神大震災の前には、

なぜか気になって部屋の模様替えをしています。

もちろん常日頃から心の中に、自分が災難で傷ついたり、

巻き込まれたりするような存在ではないと、

ふだんから心の中に神の子の信念があります。

その心が、地震の数週間前に直感的に

部屋のあれこれを移動させています。

防災がうるさく言われる前のことですから、

地震のことなど全く頭にありません。

そう。動物たちが直感して移動すると言われるように、

部屋をいじるのも直感的に湧いた知恵です。

ふとした思いつきで、なんとなくそうしたわけです。


私の部屋は六畳でしたけど、

背の高い書棚もタンスも多くて、部屋のまわりを

家具がぐるりと埋め尽くしていました。


大地震が来た早朝、

突然地鳴りのように響いて揺れ出し、

暗がりの中で、いろんなものが

落ちてくる音がしました。

私は半身を起こして、多少焦っていて、

「神様、神様、神様」と、

3べん言ったのを覚えてます(笑)。


いいえ、私はどこの宗教団体にも属していませんが、

神様の事はよくわかっています。

神様はみんなの神様で、みんなの親みたいなものです。

お釈迦さんもイエスさんも神様の事を

後世にまで伝えに来たメッセンジャーです。

彼らは真実を語った教師だったから、

数千年後の今も名を残しています。

しかし、仏典や聖書は難しいので、

私は、よい研究者の言うことや

よい解説書を読んで学んでいたのです。


阪神大震災のあとで、

いろいろ観察すると、落下したものはすべて、

寝床の私を避けて落ちている(笑)。

当時の重たいブラウン管のテレビも、

テレビの台から落下して、

勢いよく転がってはいましたが、

私の体にかすりもしなかったのです。


枕のすぐ後ろはビニール製の洋服ケース。

その上にのせていた荷物なんて、

私の頭上を越えて、

私の足元まで飛んで行ってる。

一番驚いたのは、寝ている真横のタンスの上の

大きなガラス張りの人形ケース。これが落ちたのに、

ビニールの洋服ケースとタンスの間に挟まれながら

ゆっくりと下にずるずる落下したもようです。

つまり、あろうことか、少しずつずり落ちたのです。

そういう静かな落ち方だったので、

大きな四角いガラスは4枚とも割れていません。

実はこの人形ケースを

地震の前にわずかに移動させていたおかげで、

直接頭の上に落ちることがなかったのです。

私の上に落ちていたら、大けがをしていたはずです。

生命にかかわったかもしれません。

他にも私を目がけて何か落ちたり倒れたり

していたなら、大変なことになっていたでしょう。

ちょっとした模様替えをあちこちしていたことで、

私の寝ているスペースにだけ何も落ちなかった。

今思い出しても不思議なことです。


ふと思いついたわずかなことが、

その後の明暗を分ける経験は、誰にでもあるはずです。

たとえば、

通勤通学でいつもと違うルートにしたくなった。

するとその日はいつもの道で事故があったとか・・・。

また、その日は、なぜかバスを遅らせたくなった。

するといつも乗っている便が事故を起こしたとか・・・。

こういうのは、

「虫の知らせ」と言いますよね。

しかしその逆もある。

いつもと違うルートにしたために災難に遭う。

遅らせたためにその便が事故を起こす。

気の毒ですけどそういう場合もあるわけです。

こういった運命の明暗は、

ふだんからの精神生活に原因があると思われます。

日頃の心の持ち方であり、、どんな信念を持っているか、

それによって大きく左右されます。

まちがいなく、類は友を呼ぶのです。


阪神大震災では、同居する私の家族も無事でした。

そのころ住んでいたアパートも持ちこたえました。

台所で皿が何枚か割れていただけです。

電気はつきました。テレビで阪神高速の一部が

横倒しになっていてびっくりしました。





記憶では、

水道とガスが復旧に数日かかったかもしれません。

しかし家の前に使える水道がありました。

数件離れた町会の世話役の人が

何でもいるものは言ってくれと親切でした。

駅では神戸方面の線路はぐにゃぐにゃ。

大阪方面はすぐに開通しました。

勤め先がそのころ大阪だったので

すぐ仕事に戻れたし、

職場の人たちが気を使ってくれました。

大阪のお風呂屋さんに友人と電車で行きましたっけ。

親戚も大阪でしたから、すぐ来てくれて、

あれこれ世話を焼いてくれました。

というふうに、

未曽有(みぞう)の災害だったにもかかわらず、

私には被害という被害は何もありません。

しかし私の町内でも、

古いマンションの1階部分がつぶれて、

誰かが生き埋めになっていて

家族が泣き叫んでいたのがありました。

壊された家屋もあちらこちらにあって、

地震の爪跡はとても大きかったです。


ちょうどこの地震の6年くらい前から、

私には、自分が神の子、仏の子であるという

自覚が育ってきていました。

神仏と一体であり、神仏と一つであるという

その事をいつも心の中で確認しており、

感謝と祝福を心の中に感じています。

神仏の世界は無限の幸せしかなくて、

その中に私がいるのだということが、

私にとっての真理なのです。

それが素晴らしい真実であることを

私は直感しています。

このような私は、どこへ行って何をしても

幸せあるのみです。と考えていますし、

私が為すこと話すこと書くことは、

こういったブログにしましても、

私を通じて神が表現なさっていると思うから、

きっと多くの方のお役に立つだろうと思っています。

つまりそれは、

ほかのお方の事もそう感じていますから、

他のお方の書いたブログを読んでも、

そのお方を通じて神仏が

ヒントや気づきをくれている気がして

読みながらありがたく感謝しているのです。

そういう常日頃の心の習慣ですから、

いざ災害の中にあっても、

悪影響を全く受けないのだと思います。

私は神仏の世界に住んでいるのですから、

ただただそのことを認めて、

感謝と祝福に満ちた心が映し出す現実は、

神仏の世界と同様に幸福に彩られているはずです。

いいことしかないのです。

災害など心の中に存在していません。

心に存在しないものは現実に現れません。


世の中には、災害が来ていないうちから、

災害が来たらこうなるだろう、ああなるだろうと、

心配してやきもきしている人もあるでしょう。

恐怖におののいて、

取り越し苦労ばかり日課にしている人だっています。

そういう人は、心に嫌なことばかり描いて、

来る日も来る日も不幸を描き続けて、

その通りの人生を実現してしまうのです。


神仏の子だって? ばかばかしい!!

人間なんてそんな偉いものじゃないぞ。

どこの新興宗教にかぶれたんだ?

寝ぼけるのもいいかげんにしろ!!

そう言う人だっていますよね。そして、

そう思う人はそうなっていると思います。

人間なんてたかがちっぽけな存在で、

偉くもないし大したこともないんだと思う人は、

せっかくのかけがえない人生も、

何をなすわけでもなく浪費して、

大したことなく過ぎるのではないでしょうか。

余計なお世話かもしれませんが。


いつ災難や災害がやってきて、

自分が傷ついて不幸になるやもしれない。

人間とはそういう行き当たりばったりの

頼りない、弱くはかないもの。

偶然いつ不幸になるかもしれないし、

人間の運命などあてにならない。

そういう被害妄想を長らくお持ちの方は、

何かにつけてそう思ってそう信じて生活しています。

そしてそうなるのです。

神社に行っても、自分は頼りない存在だから、

だめで非力な自分を何とか救ってくださいと、

神仏にしがみつくようなお願いばかりしている。

自分をだめだと思っている時点で

幸せになることはできません。

自分がだめだと思えば、

何をやってもだめになる。

どんなにがんばっても

全部台無しになる。

それは、潜在意識にインプットした

「自分はダメだ」という指示命令の通り、

どんなことでも自動的に結果が悪くなる。

そういう運の悪い人間になってしまう。

自業自得です。


幸せになりたいと思うのは、

それをかなえる力が自分の中にあるからだと、

神仏はそこに気づかせたいのです。

自分の人生を開拓して創造するやる気は

主人公の人間が出すべき力で、

あくまでも神仏はそれに寄り添って支える応援です。

それなのに、

わずかな賽銭で、長時間何個もお願いしている、

エビで鯛を釣る行為。

「いやいやいやいや、

あんたにはそろそろ自分の力を

出してもらわんと」って、

神仏は苦笑しています。

「どうせ私なんか無理だから」と

しつこいあきらめ顔の人たちには、

わかってくれないみたいだから、それじゃあと、

自分の力を出し惜しみさせないように、

神仏はわざともっと苦境に立たせたりもしますよ。

実力を発揮できるようにと逆境に放置する、

荒療治もあるのですよ。愛のムチですね。


自分で自分を心底だめだと思っている人が

不幸から抜け出すことはとても難しい。

自己否定は幸せを投げ捨てる自殺行為です。

自分を軽蔑しておいて幸せになる人はありません。

自分を偉大であると思う自覚があって、

初めて人は立ち上がろうとします。

神社に行くのはあれは、

たとえまだ何もいいことが起きていなくても、

「素晴らしい人生をありがとうございます」と、

素晴らしくかけがえない自分を祝福して、

神仏に前払いのお礼を言うためです。

自分は神仏の表れで、

神の子、仏の子なんだ。

だから自分は必ず良くなるんだ。

どんどん良くなるんだ。

今もどんどん良くなっている。

ありがたい。うれしい。めでたい。

気がつけばいつも

そうやって自分を祝福している。

そういう自覚から幸せな人生が開く。

協力者もだんだんと出てくる。

まず自分の大切さを認めて、

自分を大切にできてこそ、

まわりからも大切にされる。

自分で自分を嫌う人を、

誰も好きになってはくれません。

「天は自ら助けるものを助く」とは

古くからの教訓です。


不幸、貧困、病床にある人たちへ

「何してんの。自分で立って歩けるでしょ。早く」などと

物申したイエスさんの目には、

あらゆる不幸も貧しさも病気も映っていません。

それらは本当はないからです。

世間が感染を恐れて隔離した病棟へも

イエスさんはずかずか見舞いに行ってなんともない。

相手と会話をしただけで、

どんどん患者を治してしまう。

そういうイエスさんの、

神の子としてのあまりに強烈な自覚が、

多くの人を感化して立ち上がらせます。

イエスさんは精神医学の先駆けです。

「病気は気から」の通り、心の中を治せば、

ほとんどの病気が治ってしまいます。

たいていは「あなたはもう許されましたよ」と声をかけています。

人々の心の罪悪感、罪の意識というものが、

当時の人々の人生をつまずかせて、

どれほど不幸に縛り付けているか、

イエスさんはそれをご存じだから、それを取り除く。

罪の意識というものも、

自分が神仏の子であることを知らない心です。

自分の事をけがらわしいと思っている。

自分の事をそうやって卑しいものだと

軽蔑しているうちは、卑しい行いばかりしてしまう。

軽蔑されるような行為ばかりしてやめられない。

どうしてやめられないかというと、

「どうせ自分はヤクザな人間さ。

善いことなんて何一つできっこない」とか

「人生なんて何の価値もありゃしない。

人間もみんな、獣(けもの)みたいなもので、

ただ快楽を求める本能の塊(かたまり)なのさ。

肉欲の塊なんだ」とか、

自分を野蛮な卑しいケダモノとして認めているから、

その通りのことしかできなくしているのです。


ところが、いったん自分が

尊い神の子、仏の子だと知らされて、

それを自覚すれば心が新しく生まれ変わる。

明かりをつけた部屋のようになる。

もうそこには、さっきまであったと思い込んでいたような

深い暗がりは消えてないわけです。

人間が生まれ変わる。

神仏の世界に罪はありませんから、

その世界に目覚めた神仏の子にも罪はありません。

もう過去を引きずって

同じ過ちを繰り返すことはあり得ません。

このように人間が丸ごと更生することを

「神によって新生する」と言います。

もう一度この世に本当の自分を誕生させることですから、

こんなに幸せで祝福すべきことはありません。

こうして誰の人生も明るいものになっていく。

それは奇跡などではなく、

「当たり前のことやん」と

イエスさんは言ったことでしょう。

数千年前のせっかくのアドバイスが、

現代ではまだ当たり前になっていないのですが・・・。


ですから、災害を起こしたり、

その災害に巻き込まれたり、

不幸な状況を招くのは人間の心です。

私たちは神の子、仏の子。

かけがえのない同じ人間同士なのですから、

争う利己心を捨ててしまいましょう。

災害を過剰に恐れて不安になることも

やめてしまいましょう。

それだけでも被害の度合いは少なくなります。


災害が来ても被害らしいものもなく、

災難をスルリとかわして

避けて通るのも人間の

日頃からの心がけ次第なのです。

日頃の心がけの違いが、油と水のように、

全く混じることなく、

その人の住む世界の明暗を

くっきりと分けてしまいます。

自分を大切に尊ぶ自覚があれば、

その人が傷つけられるような事態を

呼ぶことはないのです。


神の子、仏の子としての

自分の大切さ、偉さを尊び、

その心を保ちながら、

思いつくことを実行しましょう。

それこそが自分もまわりも安全に導く

最も優れた避難アイテムです。

特に思いつくことがなくても、

普通にしているだけでも守られています。

自分の心が自分を完全に包囲して、

幸運をまとわせているのです。

そういう人が一家に一人でもいるだけで、

家庭の安泰を招いてくれます。


どんなことがあっても、

どんな情報でも、動じることはありません。

神の子、仏の子としての

自分を大切に思うからこそ、

その心の中に、直感的に、

自分もまわりも守る最高のアイデアがふと

脳裏に浮かぶのです。

必要な最善の知恵が

必ずもたらされるはずです。

神仏からの贈り物として。  (2019.12.19)


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