か  ず  や      ぐうわぜんしゅう

KAZUYA no GUWAZENSHU

私は、みんながすばらしく

生きるための本を書きます。

だから私が書いたものはすべて、

読む人を元通りきれいにして

読む人のすばらしさを映す鏡です。

人として充実した人生を生き抜く

ためには、優れた言葉たちと出会

うことが大切です。

詩と寓話は、その宝庫です。 

加杜矢                         加杜矢の祭書店発刊

加杜矢の
寓話全集
【かずやのぐうわぜんしゅう】
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令和元年
11月22日(金)ぶろぐ更新【6・麻薬と殺傷をめぐって】

ぶろぐ記事のリンク一覧

6・麻薬と殺傷をめぐって

5・学校教育と世の中の再生のために。1     2   3

4・使命へ催促されている。

3・理性で生き抜く有志が求められている。

2・大きく舵を切るために。

1・雨が降っても風が吹いても。





































































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【加杜矢の寓話全集】

トピックス

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「お守り本」として

世界は人々の心の結集でできています。その心へ自作の詩や寓話をお届けすることで、大勢の心の生き方に働きかけ、世の中全体の幸福に役立つしるべ・ちから・ひかりとなりますように。  

詩人・寓話作家

  山崎加杜矢(やまざきかずや)

この世の中を作り出したのも、作り続けているのも、私たち人間の心です。世の中のすべては心が使う道具であり、何もかもが心の命ずるままに動く従者にすぎません。主人(絶対的な主導権)の座にある人間の心へ働きかけ、万物万人の幸福を目指すために、長年にわたって自作の詩と寓話を用意してきました。世界中が必要とするテキストにしようと、日夜励んで参りました。

すべての物質が分子の集まりであることは、中学生の時に習いました。その分子の並び方が、私たちの感情や意志によって自由自在に変わることも私たちは体験から知っているはずです。「病は気から」や「類は友を呼ぶ」、「自業自得」などの諭(さとし)はそこから来ていて、私たちの身体や環境、私たちの出会いや運命までもが、私たちの心を映す鏡であることは事実なのです。ならばあらゆる問題に対しては、目先の取るべき形や対処方法といった応急処置を論ずるだけでは足りません。何よりも真っ先に、私たちの心のあり方をまず論じなければなりません。心が目に見えるすべての生みの親なのですから、全ての問題の原因も心です。心が治って、心が健康になって、心が幸福になれば、目に見える全てのものも自然と素晴らしい形になり、脳裏にも自然と素晴らしい知恵や対策が思い浮かんでくるのです。

たいてい人間社会がしてきたことは、「樹木の根っこが悪くなっている」という原因は放っておいて、結果的に出てきた目に見える部分、枝葉の無数の悪さを切り取るのに四苦八苦、悪戦苦闘している。目に見えない根っこの部分は、私たちの心であり、私たちの生き方です。その根本を直さないで、次から次へ表面化する症状に振り回され、あれこれ手を変え品を変えて対応に追われているのが、現在に至るまでの状況です。根っこを丸ごと直さない限り、幹や枝葉の症状を一つ抑えても、また別の症状があちこちに出てきて、際限なく悩まされる。その繰り返しです。新しい法律も新薬も新たな施策も、全てはその場しのぎの間に合わせで、解決には至りません。同じ災難は起こり、同じ事件や事故も尽きません。

                                「色(物)即是空(心)」=「物質は心そのもの」【釈迦】        「汝の信ずる如く汝にまでなれ」=「信じたとおりの報いを受ける」  【イエス】




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ぶろぐ

特定の宗教や特定の団体に属さない私ですが、「天」や「神」という言葉の持つもともとの大切さを遠慮なく堂々と書き、読者と分かち合うことが出来れば幸いです。



麻薬と殺傷をめぐって   令和元年11月22日(金)15:00


有名女優が麻薬所持容疑で逮捕。テレビでは連日その報道がなされています。別件で、薬物所持の再犯ということで、元タレントが度重なる逮捕に至ったという報道があったばかりでした。

薬物とは異なる事件ですが、最近の事件を申し上げれば、14歳の中学生男子が小学生女児を刃物で切りつけることが青森県で起きた。さらにそれに続くような形で、15日の夜、若い女性が新潟の駅前で刺殺される事件も起きました。

今朝の新聞でも、兵庫県で行方不明だった高2女子生徒が絞殺死体で発見された。同じ家の中で顔見知りの男が首をつっているのが見つかった。また、大阪府のJR福島駅のホームでは、小6男児が母親とベンチで会話していたのを、いきなり「うるさい」と言って暴行した男が逮捕されています。親子で電車を待っていた男の子の頭を回し蹴りして転倒させたんです。そのあと男は電車に乗って逃げ、男の子は顔面打撲と前歯を折るなどのけがを負わされています。防犯カメラにも勢いよく蹴る犯行が映っています。

さらに続ければ、いわゆる「関電問題」の続報で、1面の見出しに「福井県職員109人金品受領 元助役から現金・小判」とありました。

こうして、相変わらず途切れぬいろいろな事件ですが、共通しているのは、自分も他人も、自他を粗末に扱い、ごみかなんか捨てるようにくしゃくしゃに傷つける行為です。人を人とも思わずに、くずみたいな物扱いをしている。常軌を逸した高額な金品をやり取りするのも、お金に人間が支配されて、お金よりも人間の立場が低く卑しい身分になっている。お金で粗末な物のように操作しようとしているわけです、人間を。


現代は、引き続き物質文明と物質教育の両輪で進行する最中であるから、自分も他人も物扱いする事件が後を絶たない。

まず、今の社会は点数や成績で人間が物のように比較されて分別される。だから点数と成績を争う教育を子供のころから義務付けられている。また、物質文明とは、科学文明のことであり、科学の言うとおりにするのが常識とされている。それでいくと、人間は物のように劣化したり故障したりするし、やがては壊れてなくなるというような物質の運命をたどる。そういう人間生活をできるだけ快適に、不自由の少ないように、補うのが科学や医学という発達した文明の役割としている。そういうのが現代的な人間の暮らしだと、そう思い込もうとしているようですけれど、そういう思い込みから生じるのが、ストレスではないでしょうか。人間は物ではないのに、科学や医学に吹き込まれて無理に人間を物扱いして、人間の存在を物のようにしか見ないでいる人間蔑視(べっし)、生命軽視が、実は非常なストレスになっている。それが原因となって起きる犯罪や事件が絶えないのではないか。そう思うわけです。


無論、科学も医学も物体の構造を細かく知ることでは、機器の発明でその精度を向上させたに違いない。しかし肉体などにしても、その内部の機能までは明らかにできない。同じ病気の人でも、治るか治らないかは個人差があり、その経過が違うのは、肉体の中身の働きが、それぞれ人によって違い、個人差がある。どうしてその差ができるのか、それを見ることは高額で高度な精密機械にもできない。人間同士、持っている肉体(物体)が同じなのだから、ある薬を処方すれば、全く同じ効果や反応が得られてもいいはずなのに、一概(いちがい)にそうとは言い切れない。それはつまり、肉体は同じように与えられ、授かった物だとしても、それを使う人間の本体であるところの精神性、心が、各人で違うからだ。無色透明な心だけは、どんな機器でも検査することはできない。肉体は各人の心によって使われる道具であって、長年使われていくうちに、その人間特有の心の在り方が、肉体という物体に心の癖をつけていくのです。それが体質になっていく。ですから、人間は物ではない。本体は心なのです。心がけ次第では、肉体も人生も健康で幸福でいられる。そういう素晴らしい神聖な心がみんなの本体です。それなのに、本体である心の事は全く無視して、人間の外側しか見ないで、人間は物だからああなるよ、こうなるよ、ああしなさい、こうしなさいと言われてしまったら、それは心の底では私たちは本当には納得していないんです。それが最新の現代文明の答えだからと言われても、なんだか苦しくて寂しい気がするのは、それが真実を語っていないから幸せに感じない。そしてそれがどんどんストレスになって積もる。自分の肉体や環境の物体面、物質面にしかスポットが当てられていないから、すべてを物扱いされて終わっていては、満足も納得もいかないわけです。人生でもお金や点数や成績といった物質面の競い合いばかりで、物の争奪戦で勝ち負けを決めているのが、経済社会です。人生をそういう低俗で野蛮な扱いをしていると、人間らしい心というのは死んだように息をひそめていなければならない。そこのストレスというのは、時にはとんでもない爆発になって、事件や犯罪の姿になって表れています。


物扱いされると、「自分は物ではないのに」という気持ちがたちまち湧いてくるのではありませんか。それが普通の正常な感覚ですよ。

もし自分が物扱いされて、それに妥協したり、従ったり、我慢したりしているなら、自分を否定されている行為を許して受け入れたことになります。それは自己否定であり、「お前なんか人間じゃないぞ」と言って自分を虐待していることになります。世の中には、大人しく黙っていると、そういう虐待を強要されそうになることが日常の中に多くあります。物じゃないんだから、自分は人間なんだからと、自分の人間性を守り続け、時には自分を保護するための主張や抗議も行う必要がある。それがちゃんとできなくて、自分に言い訳してしまう人が、薬物に逃げてしまうのだと思うのです。すでに自分をしっかりと守ることをしなかった人が、ふらふらとガードも甘くなり、誘われるままに薬物という落とし穴に落ちる。薬物で廃人になったと言うよりも、自分を物扱いされるがままにしておいた、その結果、薬物依存になるのです。自分をただの物に過ぎないと、自分に対して物扱いする軽蔑がエスカレートして、その挙句(あげく)に薬物に手を出すと思われます。自分をただの粗末な物体だと認めてしまっていますから、自分を尊敬して大事に思えない心境です。それは、自分に強いストレスをかけている状態であって、極度の精神的負担です。なぜって、本当の自分は、どんな扱いをされてもいい粗末な物なんかではない。自分が物に過ぎないなんて嘘で、自分に嘘をついてしまっている。そのストレスの苦痛がいたたまれなくて、苦痛をなんとか逃がそうと試みてもがく。そのもがく方法が、人によっては喫煙、アルコール、ギャンブル、買春、万引き、暴力、車での暴走など、多岐にわたるのです。いずれも自分を尊敬できない寂寥(せきりょう)をごまかそうとする紛(まぎ)らわせであり、自分で自分を人間らしく扱えない欲求不満、不平不満のはけ口です。そして、これらのいずれもが常習性を起こす毒物や蛮行(ばんこう)ですし、心身の病気が増悪する不衛生、不養生、不健全な行為です。なぜそのような毒を求めるのかというと、粗末な物扱いする自己否定の強いストレスに対抗するためです。「毒をもって毒を制す」とはこのことです。ストレスとは、心の中にできた膿(うみ)の水疱(すいほう)ようなもの。膿が水ぶくれみたいにできた皮膚をかきむしると、血が出るまでひどくかきむしっても逆に気持ちがいいんです。健康な皮膚を同じように激しくかくと、痛くて耐えられないのに、そこに膿ができていると、どんなにかいても快感で、かきむしり続けてひどくなり、治らなくなる。つまり、自分をごみのような物体として認めたために、心に膿みたいなストレスがたまる。すると、そういう自分の人生をかきむしりたくなって、激しい刺激や毒物を求めてしまう。その刺激や毒性が快感になって、依存症になり、刺激と毒を自分に与えていないと、たまらなく人生がかゆくて苦しくていたたまれない。そうやって、自分を自分の手で壊していくことになるのです。


心の中で先に自分という人間を侮辱して傷つけているから、その心の表れとして、現実に毒を持ってきて自分を傷つける。それが一時しのぎの快感をもたらし、そこに依存してしまう。自分を否定しているストレスって、つまらない低俗な快楽にやすやすと支配されて屈服してしまう原因になる。そういうくだらないものに支配されて操縦されてしまうのは、自尊心のかけらもなくて、自分で自分をまともに人間扱いしていないからです。特に麻薬は、人生を台無しにする大きな害でしょうね。だからそれを選択するっていうのは、よほど自己否定のストレスがかかっていると見てよい。自分をごみと思うから、本当にごみになっていくような、自分で自分をごみにしていく行為に走るわけです。そういった人たちも義務教育は出ているはずです。しかし、教室では、受験知識をいくら暗記したかの試験ばかりしている。並んでいる子供たちは、まるでお皿のようで、どの子がどれだけ石ころをのせられるか、つめこめるか、そればかりやっている。そうして、点をつけて、点数や成績で子供たちに値札を貼るような区別までして、棚に商品みたいに投げ分けるような選別行為で、学校の目的が子供たちを物扱いすることになっている。これでは幼少から学校で虐待されているようなもので、まともな神経は育たない。政府にも学校にも教師にもこのことの危機感がない。そういう学校の非教育に、親もうすうすは気づいている人もあるだろう。いじめや虐待が起きた時の学校の対応を見て、子も親も物扱いされていませんか。問題が起きてもなお、人として対応が的確にされないのは、普段からそういうことができていない非教育体制だからです。子どもや親の生命よりも、学校は学校の権威、面子(めんつ)、体裁、保身を優先する。学校側の都合の悪いことはぐずぐずあいまいにして先延ばしする。隠ぺいや嘘の報告もある。子供の生命を預かっている教育者のすることではありません。そもそも子供は、政府が推進する経済社会に提供する製品であって、経済競争に向く子とそうでない子の選別処理や順位付けがメインに行われている、学校は工場。教師は工場の作業員になっています。経済市場に出荷する果物や野菜と同様に、教師は子供を値踏みして、売れる物と売れない物に区別していく。その過程で廃棄される物もたくさんある。で、そういうことは教育でも何でもないのです。だから、学校は教育の場ではないから、教師たちも教育者なんかではないから、いじめなどの問題が起きたらすぐに警察や弁護士を頼んで、自殺者が出る前にさっさと法的な争いに持ち込むべきだという意見が出ています。教育の場ではなく、教育者もいない、そういう学校だったらもういらないはずです。

子供なんて点数や成績で差別されて振り分けられ選別される、ただの物に過ぎない存在だから、発言権などなく、黙って言うとおりにしていればいい。そういう所へ、子どもは小さいころから毎日登校して犠牲になっている。親がうるさいから。先生が怖いから。社会に取り残されるから。ほとんど否定しかされないところへ無理矢理通っている。それは戦時下の強制収容、強制労働です。自分は言いなりになって動く、単なる物に過ぎないのだと、自己否定を強制されるところが学校なのです。経済優先の政策が学校の後ろ盾になっています。人間性を平等に向上させ、人間らしい成長の栄養をくれるなら、登校拒否はなくなり、子供は生き生きと喜んで通うし、親も胸を張って学校へ行きなさいと言える。勉強も授業も先生の事も大好きで尊敬する。学校がそうならないで、黙って言うことを聞く経済戦の兵隊ばかり、行政が作りたがって、親たちの手から子供を横取りしている。そのせいで私利私欲のお金儲けに特化した無神経なロボットのような人間ばかりになる。ハラスメントやいじめ、虐待が絶えない世の中は、そういう人間が率先して作っているのです。事故や事件、犯罪もなくならない。子供たちは学校でお互いを物扱いすることを覚え、それを社会で実践する。それが今の世の中なのです。


こうして、自分を害する自己否定、自己蔑視、自己虐待という、自分を卑下(ひげ)することは、やがて他者を否定して蔑視して、他者を虐待する犯行へとつながっていき、他人を傷つける行為へ駆り立てていきます。自分を激しく憎悪して、自分を大切にできない人間が、他人を大切にできるわけがないからです。

当たり前のことですが、犯罪者は他の星から来た凶悪なエイリアンではありません。私たちが作っている社会と学校教育の中から生まれた同じ国民です。今の社会と教育には、国民からそういう人間を生み出す原因がある。自分も他人も自他を物のように雑に扱い、人間の生命の尊厳を無視した生命軽視の社会と教育の問題はここにある。


青森での女児切りつけの犯人は14歳の少年。誰でもいいから殺したかったと供述している。ある報道番組でも、この少年が以前から人間の生き死にに関心があったというから、解剖のような人体実験に興味があったのだろうか、カバンにはカッターのような刃物を何種類も入れていたという。1997年の神戸連続児童殺傷事件を思い出す。この事件の犯人も14歳の少年だった。誰でもいいから人を殺したかったというのも同じ。事前に猫などの小動物を殺していたことは有名。つまり、自分も他人も、人間なんて自他共に肉の塊(かたまり)に過ぎない物体である。そういう尊厳のない軽蔑した見方をさせられてきたし、してきたわけです。刃物で切り刻んだって、人間なんて粗末な物体なのだから、傷つけようが殺そうがかまわない。いや、切ったり刺したりしてみて、人間という物体がどう反応するか見てみたい。この神経は、生命のかけがえなさとか、傷つけるのは畏(おそ)れ多いとか、少しも感じない愚鈍で麻痺した神経をしている。物質文明と物質教育の申し子です。そういう人間をこの社会と学校と家庭が生み出し続けているのです。新潟の刺殺事件にしても、紙面では男女の交際関係の悪化をにおわせるような文面でしたが、自分の都合が悪くなると、さっさと相手と対立して反旗を翻す構図ですね。相手が自分の思い通りにならないと、まるで物でも叩き壊すように、邪魔者扱いする。相手を人間だと思ってないわけです。所有物のように思っていて、気に入らなければ壊してしまう。それで済むと思っている。相手を粗末な物扱いしている。恋人でも夫婦でもそういう事件が多い。


人間の存在が単なる物質に過ぎないし、時としてお金や他の物よりも人間の価値が低い。人間をそういう物扱いするし、されるしの社会や学校や世の中で、やはり心がまともでいられなくて、人間らしい心は死んでしまう。こういう心の死が招いている事件ばかりの気がする。心を大切にする社会、心を大切に育ててくれる学校。そうではなくなっているのです。令和元年になってすぐ、神奈川県の川崎でバスを待つ小学生を殺傷する事件がありましたが、男子児童の頭を回し蹴りしたこの30代の男も、すでに心が死んでいます。心を殺されたのかもしれない。愛されて祝福されている人間がすることではない。虐待とは、虐待された者が、相手かまわず仕返しのようにやり返すことです。負の連鎖であり、終わらぬ戦争であり、逮捕や死刑では解決しません。


国内外で激しい経済戦をしている状態ですから、日本国内でも内戦をしているわけです。自殺者だけでも毎年3万人近く死ぬ。自殺未遂となればその何十倍です。利益を出すことが最大の目的ですから、自分も他人も、自他の人生はそのための手段となり、道具にされて、粗雑に物扱いされます。物扱いされて苦しくない人はいない。死にたくなるわけです。戦争とはそういうものです。太平洋戦争でも、戦時中は、戦場での人間は動く標的であり、銃撃すべきただの物体です。戦争だからそうなる。女、子供を見つけたら、強姦、虐待、暴行に走る。殺してしまう。人間性が全く失われているわけです。

経済戦もまた、同様です。人を人とも思わない。私利私欲の恐ろしい世界です。職場でも学校でも家庭でも、「ブラック」と付くような所が増え、様々なハラスメントも横行し、いじめと虐待が絶え間ない。だからとめどなく殺人事件も犯罪も起きます。そういうお互いに物扱いして、壊したり壊されたりする行為を続けてきたのです。さっさと非人間的にならなければ、戦場を渡っていけないぞと、気がつけば親も先生も子供にきつく命令して、経済戦の兵隊になることを強要しているのではありませんか。それが軍事教練というものです。子供のころから敵対して争うことを要求してしまっているのだから、この世からいじめや虐待がなくならなくても当然の結果ではありませんか。昔は兵器を使った侵略戦争。それが経済になっただけのことで、今も戦争を続けてしまっているのです。人間とは何か、そして、人間の生きる道が何か、問うていくことなしには私たちの人間らしい成長はありません。戦争なんて、人間とは言えない、未熟で野蛮で愚かな行為なのですから。


心とは目には見えない、生命そのものであり、魂であり、霊的存在です。だから、生き物の生命も人間の生命も、それを人間の手で作ったり、人間が立ち入ったりできない、すごく神聖で尊いものという印象がなければなりません。人間の知恵と力では作り出せない宝物ですから。スーパーの商品のように大量に作って積んでおけるものではない。

だから、万物の生命が神様からの授かりものとして感じられ、万物にはみんな神様が宿っている八百万の神々を、日本は古来から祭ってきたわけです。それを祝福と感謝と尊敬とで日々礼拝をしなければ、神様のしてくれていることに対して申し訳が立たないという気持ちだったわけです。万物が神様の子ですから、素晴らしくかけがえのない宝物に私たちは囲まれている。その実感が湧いてこないといけない。人も自然の生き物も山も川も海もみんな神の子で尊厳があって、みんなが協力して仲良く豊かに生きられるように、そういうことができる環境にしてくださっている。それは人間にはまねができないような芸当なんです。そのことに対して、どんなにお礼を言っても感謝しても済まないし、その感謝に終わりはない。それなのに感謝するどころか、それをわざわざ敵対させて私利私欲の暴走行為で破壊しつくしているのが経済社会。その下請けの学校教育。残酷極まりない事件も犯罪もそこから生まれて終わらない。


人間は粗末な物ではない。心も生命も神様からの授かりもので、それは肉眼には映らないすごく貴重な宝物です。神様は親のように愛情込めて、かけがえない幸福な人生を私たちに与えてくださった。だから人間の心も生命も神様と同じような愛と知恵と力が備わっている、私たちは全員が神の子なのです。自分の人生も世の中のみんなも全部を幸せにできる能力がある。私たちは神様の完全さを受け継いでいるのです。その上で神様は、地球は人間に任せたから、神様の代わりに神様から引き継いだ完全な能力を出して、地上に幸せな世界を築かせようとしている。神様は人間を操り人形にはしていません。人間が自分たちの意志で一致団結して幸せを実現するように責任を持たせています。必要なのは、その責務を使命なんだと誇りを感じて、成し遂げるだけの能力があるということを自覚することです。自分たち人間は神様から祝福されていて、とても愛されて信頼されていて、守られている。いつもそういう幸福感で満たされるべきなのです。心でしっかりと感じることは、潜在意識が働いて現実にそうなるのです。潜在意識では、私たちはすべての人や世の中や、ありとあらゆることにつながりを持っています。だから自分と同じレベルの、同じ次元のものを、世界中から引き寄せることができるし、自分も自分と同じ波長のものに引き寄せられていきます。そういう潜在意識のさらに奥には、まるで鉱脈のような無尽蔵の貴重な資源が埋もれています。それが神仏の領域で、それを開いて掘り起こしてくれるのが、神の子としての揺るぎない自覚と自信です。この世のみんなを大いに生かすような愛と知恵と力を潜在意識の中から引き出して、幸せに役立たせることができるのは、自分を神の子だと思う人だけです。人間がそういう素晴らしい存在だと思えば、そのことが真実だからこそ、初めて私たちは満足するし、安堵(あんど)するのです。そういう穏和な精神状態になろうとしないから、体調も環境もストレスだらけになり、病気や災難が絶えない。つまり、潜在意識に不幸や不遇が人間にはつきものだという情報を自分でインプットするものだから、その通りの苦しいやっかいな人生を生きる破目(はめ)になる。


自分をくだらなくて、値打ちのない物だと思って、自分に対してひどい扱いをしていては、素晴らしい人生を作る力も何も発揮できません。授かっている神の子の実力を実際に出すためには、自分がその実力の持ち主であることを確実に認めなければならないのです。自分の本当の幸せな姿を知ること。それが本当に自分を愛することであり、自分を大切にすることです。自分で自分を尊敬して偉大な価値を堂々と認めるとき、他人から物でも扱うような乱暴をされたり、腹いせに虐待される隙(すき)もなくなります。そもそも失礼な行為をするような幼稚で未熟な相手と、神の子の自覚を持った人とでは、すでに住んでいる次元が違い、波長が合わず、世界が違うので居合わせることがない。「類は友を呼ぶ」とはこのことで、人間は心の自覚に従って、自分の環境も何もかも変わってくる。自分を祝福して、自分の人生は素晴らしいと感謝して、自分の能力に自信と期待を抱き続ける人は、その通りの幸せを実現します。自分を軽蔑して否定しているようでは、軽蔑され否定されるような目にばかり合うわけです。結局はいじめる方もいじめられる方も、自分たちは幸せになる資格もないし、自分たちは粗末なごみのような価値しかないと、どこかでそう思っている仲間です。つまり、自己否定している点では一致していて、同じ土俵に立って争う同じ次元のグループなのです。それでいては、どちらも苦しくつらく、宝の持ち腐れです。不幸な人ほど心の中で被害者面(ひがいしゃづら)をしています。被害者でいるためには、愚痴や不満をいつまでも恨めしそうに広げたままで、まわりを呪う人生を続けなくてはなりません。それは自分が恵まれなくて、無能力に生まれついたと言わんばかりの八つ当たりですから、そう思っている通りに、幸せは遠ざかるばかりです。

自分が素晴らしい人間であることを学んで知ること。それが今第一に優先されなければならない。教育とは、人間が素晴らしい存在であることを知らせ、子供たちの持っている素晴らしさを開発していく仕事です。全ての子が偉大で素晴らしいのです。全ての子が一生健康で、幸せな人生を生きることができる。それを引き出してみせるのが本来の学校教育です。その学校の役割を支持するのが行政です。素晴らしい人間の集まりが素晴らしい世の中を築くからです。それこそ神様の願いです。




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学校教育と世の中の再生のために。 

                           令和元年11月11日(月)15:00



1・見える世界は心の中の映しに過ぎない

出来事というのは、実際に起きてくる前に、すでに心の中で起きていて、それが私たちの目に見える形になって現れます。ですから、出来事の原因は心の中にある。心の中の想念感情が、実際の出来事の原版(げんばん)です。日々刻々、何を思っていて、どう感じているか、それが積み重なっていって、毎日の同じ思いや同じ感じ方が、心の中で強く大きなものになると、その心の中が、現実の世界に映し出されてくる。心がそういう仕組みを持っているというのが、万物の長・人間の一番特別な性質です。ですから、心を使ってこの地上に何を映すか、人間にはいつもその責任が問われています。

世の中は、世界的に経済戦争の最中にあります。経済社会で生きることを強いられています。そのために日本の教育も、それに見合う人間を作ろうとして、軍事教練のままに経済社会の下請けになっています。それですから、子供のころから上からの抑圧的な指示命令に従って行動する体質を作り続けてきたし、慣らされてきました。そこに何の疑いも問題意識も持たないということです。そういう経済競争の兵隊として調教訓練されていますから、人を押しのけて上位になる優越感が幸せだとすり込まれている。下位に低迷すれば、地位は低く、利益も少なく、ひどい劣等感が生じます。この差別区別によって、互いに対立し、互いを敵視する争いはなくならず、事件は絶え間なく起こります。争いがやまない社会が、自分も他人も信用できなくて、不安や恐怖、憤怒(ふんぬ)や憎悪をいつも心の中に充満させて、強烈なストレスになっています。その心が、現実に人生に映し出されてきたときに、様々な病気や災難になるわけです。その応急処置としては、薬や病院を駆け回ったり、法律や権利に訴えたり、科学技術を駆使したり、そういう人間智(にんげんち)を総動員して、費用も出して手段を尽くして病気や災難を防ぐ手立てに奔走(ほんそう)するわけです。しかし出来事の原因が、絶え間ない想念感情の放送放映である限り、目に見える形の世界をどんなにいじくり回しても解決しません。現実のスクリーンに映し出しているその映像は、人の心の中から出ている放送放映なのです。心の中を直さないと、現実的な災いも去りません。一つ病気を治しても、一つ災難を乗り越えても、心の中を変えない限り、何度でも次々と病気も災難も押し寄せて終わりはありません。

この意味で、今の日本の社会も学校教育も人を幸せにする実力はない。だから、現在の社会と学校教育を維持していくために作られた現在のあらゆる機関も人材も全く意味がないし、権威がないし、信頼できない。尊敬もできない。


今、社会を、世の中を、戦場にしているわけですから、私たちはお互いに敵対しています。それが苦痛で自殺する人、殺し殺される人、だましだまされる人、奪い合い傷つけ合う事なんて、内戦なのですから日常茶飯事です。国際的にも貿易戦争をしていますから、いがみ合い、にらみ合い、核兵器をちらつかせる。こじれると、銃撃戦やら、お互いに砲弾を撃ち込むやら、陸上であれ海上であれ、戦いのニュース映像も絶え間ない。そのような情勢の中では、お互いに尊敬し合ったり、お互いの生命を尊重し合うことはなくなります。動物も食品も資源も人間の勝手な都合で全部ゴミのように殺処分されてしまう生命軽視の世の中になっています。


日本社会でも「ハラスメント」が日常語になり、ついには学校でも教師間、子供間を問わず「スクールカースト」という言葉が言われるようになりました。争いの絶えぬ世の中では、人が群れれば発生する濁った淀みのような「カースト=身分の階級制度」。それそのものがいじめと虐待の代名詞です。それは戦争が生む差別区別です。同じ人間同士が差別区別して、人が人を大切にしないし、できない。そういう私利私欲の権威と権力が身分制度です。このように、人間が作るどのような仕組みも道具も技術も、世の中の戦場では人を傷つけて貶(おとし)める作戦になるのです。現代は、家庭も学校も社会の隅々までが、敵対を余儀(よぎ)なくされる戦時中なのですから。誰も信頼できません。カーストの世界では、私利私欲の都合で裏切りや寝返りなんて常識です。今日の味方は明日の敵です。


「神対応」「塩対応」だのという流行語(?)も出回っています。相手を幸せにするような対応が「神対応」。その反対に、経済競争において私利私欲を優先してきた世の中ですから、相手を押しのけてでも自己都合を優先し、他人がどうなろうと手段を選ばないのが「塩対応」なのでしょう。「塩対応」こそ今の世の主流、本流であると言えばそうなのであり、今までは世の中それで仕方ないと済まされてきたはずです。仕方ないとごまかしているうちに、世の中は行き詰ってしまった。破壊と混乱の非人間的な戦争をしてきたわけですから、行きつくとこまで来たら、もうその未熟のままではどうにもならなくなるのは当然です。もしもお互いに幸せになる社会を目指して、「神対応」が当たり前の主流になるためには、それこそ一人一人の人格(じんかく)が神格(じんかく)となって、一人一人の意識が神様にならなければならない。自分の中に深く秘めている神性、仏性(しんせい、ぶっしょう)を引き出してこなければならない。神性も仏性も同じで、神仏の本性です。今一番求められているのが、この、神性開発。それが人間性の本質であり、本当の成長なのであり、今が苦しいのも悲しいのも自分の奥深くの神性、仏性を閉ざしている社会だからなのです。世の中の経済戦争も非教育の学校も、決して人間の神性を開いて伸ばそうとはせず、神性を押し込めて出ないようにしている。その上で、未熟で野蛮な日本カーストのために競争させ、奪い合わせ、戦わせてきた。ひたすら「塩対応」の仕組みを維持管理して、私利私欲と快楽を争って奪い合って追求するのが人生なのだと鞭打って、その通りに従わせる調教訓練を正当化してきたのです。これほどのミスリードが許されてきたこと、もううんざりではありませんか。


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2・神性の開発は教育の最重要課題

人間性の本質が神仏の性質なのですが、それを覆い隠して出ないようにすることが、不幸の源です。幸せになりたくてもなれない苦しみがある。政府も学校教育もその苦痛を国民に強いてきたのは、国民に対する拷問であり、とんでもないミスリードでした。その間違いができたのは、人間性の本質は、私利私欲を追いかける俗物だという低俗で未熟な誤解がすでに人類の中にあったからです。そういう思い込みを利用して、日本にも私欲と快楽を追い求めて競い合う社会がたちまち出現する。


政府が、経済発展だけが幸せであると吹き込み、他の選択肢をなくしてしまう。国のお金儲けのためには国民を経済戦の兵隊や、雑兵などの奴隷として言う事をきくように仕向け、重い税負担と重労働でこき使う。これは戦国時代と何ら変わらぬ扱いです。それは、お金さえ争って奪い合えばそれでよいという、私欲に満ちた心になるように先導する国策です。他者などどうなってもよい。自然環境など壊れようが知ったことか。お金をつかみ取るためにはお互いの生命は見殺しにできる社会です。互いの生命の中に神仏を見ることなどない。自然環境の生命に対しても畏敬(いけい)の念など一つもない。その心の通りに、神も仏もないような、命あるものが何一つとして、誰一人として、生きられないような苦しく悲しい世界へどんどん加速的に進んでいます。私利私欲の心が原因なのですから、地球環境の悪化を防止しようと科学技術を進歩させても、後手後手になるだけで、なんの解決にもなりません。医学も科学も技術が進めば進むほど、新たな病気と問題を生むだけです。私利私欲の心が招く生きづらい世界は、その心が原因なのだから、その心を直さない限り、どんどん不幸は拡大していきます。自分が得をするためには相手が邪魔になるのが経済戦争なのですから、経済社会はお互いに滅ぼし合う道しかない。私利私欲の低俗な心の末路は破滅以外にないのです。


私たちの奥に輝く神性、仏性を燃え盛る炎だとすると、その明るい存在を自覚して認めて、その光と熱を使うことが自分と世の中のためになります。一人一人がその役目を持って生まれていて、自分にしかできない役割がある。その使命をみんなが果たすことで、みんなの力で地球にも、全部の生き物にも、全部の人間にも、全体的な平和と幸福をもたらす。しかし私たちが、人間なんてしょせんは俗物で、自分の快楽欲に突き進み、損得利害を争って傷つけ合う醜悪な生き物だと思う限り、その低俗な自覚から生まれる怒りや憎しみなどの想念感情は、毎日ゴミのように厚く降り積もり、私たちの本当の姿である神仏の性質を覆い隠そうとします。自分を私利私欲の俗物だと思えば、自分を軽蔑することになり、授かっている神仏の高い値打ちは出てきません。このように自分を損なう自己否定を抱える大勢の者たちは、他者も否定して軽蔑するのです。相手も自分と同じレベルで考えますから、どんな相手も、自分と同じ醜い土俵上で私欲を争う憎らしい敵になるわけです。これでは互いの中に神仏を拝む気持ちなんて生まれません。このように、神性、仏性を隠そうとする考えは、全てが嘘偽りのゴミです。そのゴミの製造を人々の心に増産させてしまったのが、政府が指揮する経済戦争とその下請けである学校教育です。心のゴミは、やがて神性、仏性の炎の上に積もって燃え、大きな黒煙になります。その黒煙が不幸の姿形なのです。けむたくて息苦しくて死にそうになりながらも、焼却されてしまうような悪い想念や感情を持つことをやめない。だから不幸の黒煙の中から脱出できない。原因を自分の心にあることを自覚しないし認めない。幸せになりたくてもなれないのは、自分の本当の聖なる姿を自覚しないし認めない頑迷(がんめい)さと、そういう自分をやめない未熟さです。


ソクラテスは、このことを「無知の知」と説きます。人間は素晴らしい存在であるのに、わざと不幸になるようなことをしている、その自分の無知に気づきなさいと。しかし人々の頑迷さは、長年積もり積もった正しくない思い込みの業(ごう)であって、その過ちにはなかなか気づかないし直せない。ソクラテスの例えには、こういう世の中の人々を刑務所の囚人に例えています。お慈悲で救うつもりで牢屋から出してあげようとすると、それに逆らって、かえってこちらが攻撃されてしまうと言っています。牢屋の中に居続けることが、自由を奪われ、苦しく悲しいことであるにもかかわらず、扉を開けてやっても自分から抜け出すことが出来ずに、救いの手さえも理解できずに追い払うのだと。このような、アテネ市民の無知にどこまでも付き添って、問答を駆使して無知から脱出させて、本当の自分の人間性に気づいてもらうように導いていく。それが「魂の世話」と称する、当時のソクラテスの聖なる仕事でした。人々の積もり積もった思い込みは、「ドクサ」と言って、どんなに身につけても幸せになれない社会通念です。社会の中にはそれに従っても幸せになれないような考えや習慣がたくさんある。それをはぎ取らせ、捨てさせることは容易なことではない。しかしドクサを掃除しないと、人間性の宝庫である神性、仏性は、ドクサに覆われたままで、幸せになる本当の知恵と能力を引き出すことはできません。ドクサは、不幸になるしかないような、役に立たないようなものを無理矢理に社会から押し付けられた、幸福になる根拠などないような借り物の知識です。人間性の宝を覆い隠す汚れです。これを清める仕事をして、人々の幸せに貢献しようとしたから、三大聖人としてソクラテスの名が後世に残ったのです。


いつの世にも無知につけてやる即効薬はありません。いつの時代にも政府軍と言うべき、富国強兵を目指すお上(かみ)の命令によって、民衆は長い年数の軍事教練を強制されて、戦争に勝って相手を打ち負かすことが何よりの美徳だと、子供のころからすり込まれて無理矢理に強引に調教されるからです。大勢を退けて勝って褒美や賞金をもらうことが至上の幸福なのだと吹き込まれてきたわけです。それは同じ人間同士で上位と下位、優劣、差別区別を際立たせて、優越感と劣等感を作り出すという、どちらも人間の尊厳を否定する行いです。これはドクサです。幸せになれるわけがない。他人を見下すことも自分を卑下することも、人間の神性、仏性を蔑視して、人間の尊厳を否定して無視することです。そのような積み重ねには、事件、事故、災難という不幸の黒煙が常に立ち昇り、世界中の人々を苦しめてきたわけです。私たちの上に立つ人材なら、そして政府が私たちの上に立つ機関であるのなら、このことをしっかりと学び、本当の人間理解に努めなければ、上に立つ資格はありません。自分も儲けたくて、地位や名誉と言う快楽が欲しくて、上の座を奪って譲らない。そういう繰り返しでは、選挙は何の意義もなく、世の中を破滅させるミスリードばかり続きます。


ソクラテスの他に三大聖人として名高いのがお釈迦さんとイエス・キリストです。釈迦は長い修業生活の挙句(あげく)に自分が何者か悟りますが、「修業は悟りの因にあらず」と言って、修行なんて意味がなくて、直感で自分が仏の子だと悟った。自分の奥深くに神性、仏性という神仏から授かった人間の本性がある。だから、自分が何者であるか、強烈に求める気持ちがあれば、自分でその答えを感じて察知する。それは、当然のことです。人から教えられて、人から聞いて、流行や伝聞でそうだと思うようなことではないわけです。魚だって生まれたらすぐ泳ぐ。自分の人間性の本質なんて自分が一番よくわかっている。それがやっとわかったという喜びで釈迦も「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」だと言っているのです。自分は神仏の完全な性質を受け継いでいる、偉大で尊い神の子仏の子なのだと祝福した。これは釈迦が悟った時に言ったと思うのです。第二の人生の誕生だったのですからね。そうしてそれは自分だけじゃない。「山川国土悉皆成仏(さんせんこくどしっかいじょうぶつ)」と言っている。この世の全てが尊くて素晴らしい仏様なのだと言っている。だから釈迦にとってこの世がそのまま極楽浄土なのです。全てが神仏なのだから、世界中の全てに対して感謝と祝福の気持ちで満ちる。釈迦は、自分も他人も、この世の万物が神仏の表れであって、完全で調和した円満な世界だとわかったのです。それを自覚して認めるからそういう境地が開いて、幸せな人生になって来るし、実際に生活がとても幸せになるんです。さらに仏典では「衆生(しゅじょう)ほとけを憶念(おくねん)すればほとけ衆生を憶念したまふ」とあります。人間が仏様の事を大切に思うなら、仏様も人間の事を大切にして下さる。人々が自分も他人も万物が仏様であり、仏様と一体なのだという事に気づいて、感謝と祝福の一心で生きる喜びが、一切の人災天災を消し去り、四苦八苦を消し去り、世の中に神仏の素晴らしい世界を映し出すと、仏典は説いているのです。神仏の世界が現実化して何不自由のない極楽浄土になるわけです。


イエスにいたっては、聖書でもはっきり「父なる神」としています。これは、自分は全知全能なる神様の跡継ぎであり、自分は偉大で崇高な神の子であって、自分は神のように偉大だという、自分は完璧だという自覚です。また、イエスは人々を自分の兄弟姉妹として語りかける場面が多々あります。それは人類がみんな神の子であることを示しています。だからこそ、みんなの親は神様なのだから、みんなが神様から愛されている神の子。神様から幸せな人生をみんなが授かっている。神様の世界には幸せしかないから、そのことの感謝と祝福が心に充満するとき、それが神を心から信頼して愛することになり、神仏の完全で調和した世界は自分の人生や世の中に現実のものになります。地上天国が自分の人生にあらわれる。

だから、何よりも第一に自分の親である神を愛しなさい、信じなさい、そうすれば全てが調(ととの)うし、何事もうまくいきますよと、イエスが説いているのです。自分と同じ神の子である他人も神の表れですから、みんな神の子なんだと尊敬して、みんなを大切に愛することが、神を愛することであり、神を信じることです。聖書に、イエスが敵さえも愛しなさいと言うのは、「そもそも同じ神の子の兄弟姉妹の中に敵などいないでしょ」という初歩的な心構えを言っています。こちらが敵と見なした時にのみ、いないはずの敵が出現するのです。あらゆる不幸の原因が、いないものを有りと認めた頑(かたく)なな妄想です。神は不幸を一切作らないのですから、人間が作っているだけの事です。不幸がないとわかれば、消えてしまいます。不仲で他人を責めてばかりで、敵を作る人ほど、自分の心の摩擦を自分の体の病気でよく表現しています。みんなと和解すればいつの間にか持病もなくなるという事はよくあることです。

人間が、神様の子であり、仏様の子であるという、この神仏との一体感は感謝と祝福の喜びに満ち満ちて、人間性の奥深くにしまっている神仏の性質がほとばしります。幸せをこの世の中に実現するための神仏のような素晴らしい愛、知恵、力、あらゆる富が供給されるなど、全知全能の御業(みわざ)は私たち人間の中から次々と展開します。

私利私欲の独りよがりの、利己的な活動中心の、今までの経済社会では、みんなばらばらで何事もなしえず、問題ばかり起きて、失敗や不祥事ばかり発覚して、破壊と混乱ばかりだったはずです。それもこれも本来の人間性の宝を全く認めず、引き出さず、磨かず、閉ざしてきたからです。学校教育も軍事教練の見せ物であり、人間性を無視し続けています。見栄えばかり飾りたてようとして、外からやたらめったらドクサの無理強いを押し付けて貼り付けて、指示命令一つで軍事パレードのような一糸乱れぬ経済行進を誇っています。スローガンは「地位獲得争奪戦の出世欲こそ経済社会の誉(ほまれ)」とばかりに、そのシュプレヒコールで子供を身動きできなくしている。内側に神仏から授かって持っている宝物には知らん顔して、子供のすばらしさを無視して傷つけて殺してしまっている。


また、とにかく人間なんてものは、未熟な悪い者で、弱いものだから、外から何か付け加えなくては、人間が不完全だから、人間の不完全さを補うように科学やら医学やらをもっと研究して進歩、発展させないといけないと言う。しかしそこに「人間は不完全だ」という心のドクサが湧いてしまっているから、人間がそう心の中で認めたとおりに不完全は居座り、いつまでも世の中から不幸がなくならないのです。だから何を研究して発明しても、結局は人間の不完全さを露呈(ろてい)することになる。すぐ思いつくだけでも、アスベスト、フロンガス、温室効果ガス、原子力、そして、最近では急にプラスチックも新たな目の敵にされています。海に漂うプラスチックごみが生態系に悪影響を与え、海の環境破壊になると判明したからです。しかし、各国の国民が自然の中にごみを捨ててきたのは、今に始まったことではありません。川や海をゴミ箱のように考えて、何でも垂れ流す。何でも投棄する。これは、自然界の生命も仕組みも神様仏様からの授かりものだという気持ちがない証拠です。プラスチックだけ悪者にしても済むことではありません。


世の中は、神様が作ったのではないという人がいます。神なんて存在しないと言います。これだけの宇宙や自然界を見ても、単なる偶然でそうなっているだけだという人が゛います。小宇宙と言われている人間の体も神秘のベールに包まれたままですが、人々は自分の体も自然界も自分たちがまるで製作者であり、所有者のような顔でぞんざいに扱っている。尊敬も感謝もない。私たちが生きて行かれるようにして下さっているという畏敬の念がなく、無神経で無感動な無礼者なのです。同じものを自分たち人間の手で作ることはできないのです。このことは、どんなに文明が発達しても無理なことです。それほどにすごい知恵と力と計算の結集で人間の体、自然界、地球も宇宙も出来ています。そういう神業(かみわざ)で作られた宝物ばかり、人間は授かっておきながら、授かっているものは勝手に自然にできたもので、強いて言えば偶然の産物だと言い、少なくとも神様のおかげなんかじゃないと言うのです。でも私はそう言う人に言いたい。『そう言うあなたが何気なく着ている服もね、あなたが見たことのない所で、会ったこともない人の手で、手間暇(てまひま)かけて作られたのです。決して偶然に自然にできてきたものでないのは明白です。あなたが今日食べるご飯やパンにしても、同じようにどこかで誰かが作ってくれたのです。ましてや、あなたの服やご飯よりも、作るのが圧倒的に複雑多岐で難解で、恐ろしいほどの巨大な力量と緻密で細やかな計算が必要と想像される、この人体、この地上の自然界、この地球や宇宙の仕組みに対して、どうしてなぜ、あなたのように我が物顔で、これが単なる偶然でできてきたものなどと思えるのか。こんなにすごいものばかり、何者かは見えないけれども、すごく優れた造り主がいるに決まっているじゃないですか。それを全く感じなくて、それがいないなんて言うのは、その感性は実におかしい。あなたはあなたが生きていくのになくてはならないような、授けられたかけがえないものに対して、あなたは日々一言のお礼さえも言わないできたなんて、本当に失礼極まりないことです。これくらいひどい話はない。幼稚園の子だって何かもらえばお礼くらい言うし、贈り主の親切にこたえようとする。感謝するからその恩に報いる生き方をしようと努力するのが人間です。人生という、いろいろな経験や体験を通じて勉強するチャンスを、この素晴らしい地球上の環境で与えてもらっている。そのありがたさにもっと気づくべきです。

せめて少なくとも私たちは、目に見えず会ったことのない造り主に対して、特定の呼び名を決めて、その名に手を合わせて毎日感謝するくらいは人として当然の義務です。神と呼ぼうが、仏と呼ぼうが、天と呼ぼうが、一つの造り主がいることには変わりがなく、どう呼ぼうと同じです。ところが、あなたときたら、あなたにとってとても重要な頂き物や必要だからしてもらっていることに対して、それを贈ってもらっていることすらすっかり忘れて「そんなことは知らない。そんな覚えなどない」と言い張っている。忘れるだけじゃなく、頂き物をいつしか自分で作った所有物だと思い込み、自分の都合で好き勝手してよいような感覚になり、非常に雑に考えるようになっている。そして利己的に乱用するようにもなる。それを指摘されたら、屁理屈ばかり言ってごまかす。これは、神がいないということではなくて、あなたが大恩人を無視している人間だという事なのです』

お世話してくれていることへの忘恩(ぼうおん)。恩知らずは、最もひどい人でなしのすることです。神は、人間にいろいろとしてあげたことで見返りも金銭も要求していない。お礼の言葉一つない人に対しても怒ったり、バチを当てたりすることもない。しかし、私たち自身の心の法則として、自業自得というものがあります。恩知らずな生き方、恩を仇(あだ)で返すような裏切りは、心の底の良心のセンサーが許すことはありませんので、自分の手で自分を裁くことになります。恩知らずな生き方を続けても明るく幸せな運命が開くことなどないのです。

「神などいない」とうそぶき、神を意識しなくなった時、人間は人間でなくなります。現代文明の暴走的な破壊は、欲得にまみれた人間しかいないと思い込んだ無知です。欲得にまみれて相争う修羅場から抜け出せずに苦しむしかない。


地上の生物も人間の体も、地球や宇宙も、科学や医学が解明することはできません。同じものを人間の手で作り出すことも不可能です。「神様、仏様が世の中や人間をこのようにして下さっているから、ありがたく感謝して大事にしていこう」と、神様仏様の気持ちを考えて、この世と自分たち人間の人生を大切に敬って、大切に生かして使わせていく方向へ考える。それが本当の愛と知恵を私たちにもたらしてくれる、人間に必要な生活だと思うのです。しかし、経済社会の私利私欲が、手段を選ばずにお金を儲けなさい、儲からない者は永久に落伍者(らくごしゃ)だと命じるようになってからは、学校も会社も奴隷をこき使うような成績一点張りの調教になりました。そこから自殺も殺人もさまざまな事件が絶え間ない。科学ももはや人間の幸福のために寄与(きよ)する道具ではなくなって、お金儲けの道具にされて、人間は不幸になろうがどうなろうがかまわないから、人間を苦しめる毒のような物質の発明ばかりするようになってしまった。お金を儲けるためだけの物質を作る。その物質を何よりも優先して、人間の生命よりも物質が偉い世界を作り出してしまった。その一番手が原子力。原子力発電。原子力爆弾。それこそが人間の願いや幸せよりも優先され、お金につながる。お金になる物質こそ、人間よりも尊く偉くなった。だから今の時代、人が自分を物質以下だと思う生命軽視は当然のことだ。そういう世の中にしておいて、自殺者をなくそう、殺人をなくそう、戦争をやめよう、なんて、できることではない。


自分という人間もたまたま、両親が性欲のままに快楽のために性交したせいで、その時に卵子と精子が偶然出会ってしまい、偶然に生まれてきたに過ぎないと、そう思っている人が多い。だから自分なんか肉欲の末にできてしまっただけの汚物のように思っている。人間の誕生は、父親が射精して、ミミズのような精虫が母親の性器の中で動き回っただけの事で、排泄物のような物が混ぜ合わさって自分ができているに過ぎない。そういうふうに自分の事を考えている。だから自分が生きることに対して、軽蔑や侮蔑(ぶべつ)は生じても、何も特別な感謝も尊敬もそこには生じないのです。逆に、自分の誕生したことについて、産んでくれと頼んだつもりなどないぞと恨む者さえも出てきます。そういう単なる物質的なくだらない人間を生きたくなかったという言い分でしょう。これは犯罪者の中には多い言い分です。このような物質的な教育をしているのが、学校であり、科学知識なのです。だから犯罪者の言い分は、今の学校教育や家庭教育の結果です。成績や点数の競争は、多く奪い取るか少なく奪い取るか損得利害の打算しかできない、物質的価値を尊ぶ子供にしているだけです。成績や点数という物質的な価値でしか自分や他人を見ることが出来ない。また、競争して下位に低迷する子に対して、親も教師も否定的です。テストでいい点が取れないというたった一つの価値基準でダメな生徒だと判を押され、成績表のたった一枚で子どもは自分の人生まで否定されています。生まれたときに、神様から授かったはずの生命の尊厳がそこにはありません。学校に通うようになるにつれて、次第に他人と競争して比較されて差別されて区別される。まるで値札をつけられて、店の棚に振り分けられ、投げ入れられる商品のように、価格のランク分けをされる物質扱いです。


自然界はこんなに見事で、美しくて、たくさんの命が豊かに生きる素晴らしい仕組みがあって、人類も無限の恩恵を受けている。それなのにそれは、神様なんて関係がなくて、たまたまそうなっているだけの事だと言う。物質的な偶然がたまたま重なって、山も海も川も大地も勝手に自然にできてきて、そこにたまたまあるだけのことで、神様が作ったわけでも神様が宿っているわけでもない。神様なんか誰にも証明できない、怪しい宗教家の戯言(たわごと)だ。だから、長い年月のうちに物質同士がいろいろと互いに作用して、たまたまそこに山や海や大地ができた。そういうたまたまできた大きな水たまりに過ぎない海の中へ、人間が食い散らかして出たごみを捨てても、海もただの物質だから文句は言わないさ。海は広くて大きいから、そのうち砕けて消えるさ。だから企業も邪魔な廃棄物はどんどん海へ捨てて、毒も希薄になって消えるさ。という考えです。海が生きていて、かけがえのない尊厳ある生命を持っている存在とは感じない。海みたいなものができるのにも、目に見えない非常に優れた知恵と力と技術がかかっていて、海は地球の大自然を生かすシステムの一つとして機能している。これを偶然にできた単純なものだとは言えないはずです。

私たち人間が、例えば水族館をやるとして、大きな水槽を作って、たくさんの水生生物を死なさないように飼育しようと思えば、並々ならぬ技術的な管理と努力が必要になる。設備もメンテナンスを含めて相当な投資がいるだろう。それでも海の力には追いつかない。地球の7割を占める海洋では、今も新種の発見に暇(いとま)がないような、クジラからプランクトンにいたるまで、無数の色とりどりの生物が無限に生きて繁栄しているのである。それだけでなく、海は水の循環と地球の気候にもその調節に一役も二役も担っている。だから、物ばかりをどんなに長い時間放置しても、海や山や大地にはならない。水や空気もできない。そこには物を使って組み立てて、生き物の生きられる仕組み、環境を作り出す知恵と力と計算がなければならないのである。

海は、物質がなんとなく寄せ集って、たまたまできた水たまりではないのである。それは、はるかに人間の想像を超えた、目に見えないすごい知恵と力と緻密な計算がお得意の、神様がしてくれていると、そう判断するしかない大神秘である。人間が同じことをしてみようとも不可能なんだから、それは神様と言うしかない。それなのにそのことをなかなか認めたがらないのは、幼稚だと思うのです。そういう感性が磨かれていない。一匹の虫にも、一枚の葉っぱにも、偶然では絶対にできないような造形の仕組みや美しさが見てとれる。そこに神の素晴らしく行き届いた知恵を感じないのは、どうかしている。


虫の観察に身を捧げ、虫を愛したファーブルだからこそ、進化論には猛反発し、多数の反証をもって反論し続けた。虫を通じて、虫の存在の背後に神仏を見ていたからだ。物の裏側にその造り主のいることを察する。それでこそ本物の科学者と言える。

きっとダーウィンはSFかおとぎ話が好きだったろう。空想家に過ぎないダーウィンの言う、「進化」などない。物も生き物も、自分から全体の事を見渡して、全体のためを考えることが出来ないからだ。けれども全体のお役に立っていない自然の物などこの世にはない。つまり、全体を把握している指揮者の手によって、一つ一つが全体に役立って、全体を支えるように、自然の全ての物、全ての生き物の個性が体系的に一つの組織として作られている。誰が事細かに役割を振り分け、その指揮をしているのか。神と言うしかない。進化論の言う通り、それぞれがばらばらに個々の利益のために、姿形や攻撃性、防御などを進化させたというなら、すでに自然界は滅んでいる。利己的な競争は、組織のまとまりを壊す。それでは共存共栄にならない。

食物連鎖の三角形ピラミッドは、小学生でもよく知っている。進化とは、自分だけが優位に立つための、私利私欲の近視眼的な変身である。自分さえよければよくて、全体のことなどどうでもよくて、自分の種(しゅ)さえ強くて増えればいい。ならばバランスの良い三角形は成立しない。それぞれが与えられた役割に責任を持っているから、生かし合い、共存する豊かさを実現して栄えてきたのだ。それに、ダーウィンの進化論を証明する化石は発見されない。「だんだんと今のような生き物に進化したのだ」と言うのだが、その「だんだん」の途中経過を示す化石は一つもない。だから、全体のために必要なものは突然その姿形で現れる、突然発生が正しい。それが急に思い立ってできるのは、神様しかない。

それにファーブルの見解を借りれば、必ずしも後の時代に発生した生き物が、前の時代の生き物に優っているとは限らない。つまり、生き物はそれぞれ別個のものであり、それぞれに能力が違う。ファーブルはそれを同じ種類の複数の羽虫を例にとって説明している。しかしいまだに「進化論」が人々の考えの中を占領しているのは、物質教育と物質文明の悪影響を思い知る。物、それ自体には何を考える力もないのに。


天体の発生にしても同様だ。強力な圧縮力も働いて星ができている。この広い宇宙において物が拡散するというならわかるが、物が勝手に集まってぎゅっと固まらない。時には物理に反する非科学的なことが起きて、巨大な力で星を作る。神様と言うしかない。星の誕生も、人間の誕生も、わからないことだらけだ。科学も医学も永遠に手をこまねいて立ち尽くしたままと言わざるを得ない。解明なんて不遜(ふそん)で傲慢(ごうまん)なことだ。それよりも神様がどうなさりたいか、そっちのほうをよく研究して、神様のなさることにできるだけ忠実に沿うような姿勢が望ましい。それが本当の科学の目的です。本来、神の子である人間は、親である神との一体感を持ち、親の言う事を聞いて見習った方が得策なのです。子どもがどうすることが一番幸せなのか、どうさせてあげるのが最も良いのか、知っているのもわかっているのも、子供を生んだ当の親なのです。その親心を察しましょう。神がいないなんて言う人は、親などいないと言うに等しくて、勝手に家出して路頭に迷っている風来坊(ふうらいぼう)で、勝手にひもじい思いをして、自分は天涯孤独な身の上だと勘違いしているような浮浪者なのであり、とんだ親不孝者です。親元に帰れば、素晴らしく栄えている資産家の跡取りなのです。それを忘れている。自分の身元を忘れて、わざと不幸になっているのが、神様なんて知らないという人たちです。


人間同士にしても、偶然同じ時代に相手もたまたま物質的にそこにいるだけの事なので、それで何か自分の損になり、自分の都合が悪ければ、相手を押しのけて、傷つけても乱暴してもよい。それくらい、人間なんてみんな、価値もないし、偉くもなんともない、偶然にできた物質だと思っている。神の子仏の子なんていない。他人になど感謝も尊敬もいらないし、大切にする理由がない。このように、神仏を直感して、自分や他人や全てのものの中に神仏の存在を察せられないと、人は人らしく生きる軌道を見失い、脱線した列車のように暴走して、不幸へ突進するしかない。そこに親切な愛も頭に浮かばないし、素晴らしい知恵も頭に働いてこない。自分も他人も損得利害の打算で物扱いするのなら、人間らしい心なんていらなくなる。そういう人間の脳裏には、共存共栄の愛も知恵も湧いてこない。敵対する戦争しかない。最近のニュースでも、エアガンで子供や猫を撃つ虐待があった。一度虐待されれば、猫でさえ檻(おり)の中から人間をにらみつけて牙をむき、威嚇(いかく)して誰も寄せ付けようとしない。心身に癒えがたい深い傷を負うからです。誰も信頼できないような傷つけ合う社会なのです。この社会では、目の前にいる相手は、欲望を満たすためのはけ口であり、ストレス発散のためのはけ口です。欲求不満の腹いせに攻撃してもよい標的であり、周囲の相手はそういうただの物体である。そう言わんばかりのエアガンのニュースです。相手はただの物体だから、通り魔的な殺人もよく起きるわけです。ハラスメントも多いわけです。経済社会においては、人間はみんな物扱いされる。利益至上主義だから、お金よりも人間の値打ちは低い。そのストレスに耐えられないわけです。自分が物扱いされているものだから、まわりの人に対しても物扱いして八つ当たりをしている。


自分が何者であるか、この世が何のためにあるか、よく自分の胸に問いただして、手がかりになる良書や、偉人賢人の言葉も足跡もたどって、神仏の子どもである自覚を育んで取り戻すべきである。本来は家でも学校でもそういう心を育てなければならなかった。今の家も学校もそうなっていない以上は、自分で自力で独学で学ばねば、人間の誇りを維持することは難しい時代だ。まずはとことん自分と向き合わなければならない。釈迦もイエスもその孤独な時期を経て悟りに至ったのだから。

神の子仏の子の自覚を取り戻した時に、それが真実であるがゆえの大きく深い得心(とくしん)がある。平安がある。喜びと感動がある。それは揺るがない自信となる。信念となる。神仏の子である自覚は、自分も他人も全てのものに感謝と尊敬を捧げて、大切にできる神のような知恵と愛と能力を無限にもたらす。その人生には豊かな幸福しかない。何事も円満で平和で大調和しかない。


つまり、現代社会の人間たちがやることなすことが、不幸な災いにつながるという原因は、心の中に認めた「人間は偉くもなく価値もなく、愚かしく不完全な存在」という思い込みがしっかりと実現しているのです。心の奥深く(潜在意識)の自覚を現実が裏書きしているわけです。人類が自分たち人間の事を軽蔑して、悪役の濡れ衣を着せて罪人扱いし、悪い者同士で欲を争って、お互いを敵視して対立している限り、その心の通り、何を作っても何をしても、戦争と破壊と混乱と滅亡への道へ加速させてしまうのです。そう、心の中で自分を嫌って、嫌悪して否定している以上、何事においても失敗し、惨憺(さんたん)たるひどい結果をもたらすのです。自己蔑視、自己否定。これは、人類が人類の手で首を絞めている自殺行為です。

そうならないようにと、聖人たちは親心で、はるか昔にすでに人間の実像について語ってくれて、教えてくれたのです。で、それが真実だったから数千年にもわたった現代まで彼らのしたこと、言った事が真理として伝わっているのです。イエスがしたのも奇跡ではありません。人間の本当の姿を教えたのです。イエスが病気を治したのではない。病気がないとわかったから、病人が自分からベッドを出て自分で病気を消したのです。イエスが貧乏をなくしたのではない。分かち合い、与え合うという神性をみんなから引き出しただけで、その全員が富むようになっただけです。人間には、老・病・死・罪・貧など、四苦八苦の数えきれない難儀(なんぎ)が付き物だと思い込んでいる、そのドクサを仏典でも「顛倒妄想(てんどうもうぞう)」としています。要するに勝手に悪夢を見ているだけで、実は「ないもの」なのです。「ある」とつかみ続けるから、その心の迷いが、まるであるかのように現実に映し出される。早く目を覚ませばよい。目を開ければ消える、それが不幸の正体です。「ない」のです。人間を物だと思っているから、古びたり故障したり劣化すると信じてしまう。人間を物だと蔑(さげす)むから、性欲や物欲に人生の主導権を放棄して明け渡してしまう。そうではなく、神の子仏の子という、神聖な霊的な存在である自覚をしっかりと持たないと、顛倒妄想の悪夢から目覚めない。


谷口雅春先生の著書「生命の実相」には、人間の死体を例に取り上げて、生命の本体を説くところがあります。今、ふと私の頭に浮かんだので、私なりにどういうお話だったか、お伝えしておきます。

死体に熱湯をかけてもやけどしない。死体に傷をつけても治らない。死体をたたいてみても、死体は痛いともかゆいとも言いません。生きている前と少しも変わらない姿形がありながら、体という物体、物質は、生きている時と死んでいる時とでは反応があったり、なかったりする。いくら生前と同じ物質がそこにあっても、生きていなければ生命反応がない。じゃ、つまり、その生命反応というのは、肉体という物質そのものが反応しているわけではないことになる。死体をサウナに入れても熱いと感じないだろうし、その後で水風呂に入れても冷たいと感じない。したがって、やけどもしないし、凍傷にもならない。刺激に反応しようとする生命がないからだ。とすると、生命とは肉体と別物で、生前は肉体と一体化して、肉体の中に入っているようだが、死ぬと肉体から去って、肉体は生前の感覚がなくて反応もしなくなってしまう。だから、それを日本でも昔から、死んだ人が魂になったとか、霊になったとか、言ってきたのです。非科学的だろうが、どうだろうが、そう言って、目には見えないが故人の霊を感じる力が人間にはあって、墓前や仏壇に手を合わせてきたのである。人間の本質が物ではなくて、霊的な存在であることを昔から知っているのである。神もまた目には見えない霊的な存在です。人間の本体が霊体であるのは、神の子としては当たり前の事実。生前は肉体を使って肉体を操縦して、霊体が活動しているわけです。肉体の利用者である霊魂が去ってしまうと、霊魂を乗せていた肉体という道具(物体)は役割を終える。利用者の必要がなくなった物体は、やがて腐敗などの朽ち果てていく分解作用の後に、跡形もなく消えてしまうのです。利用者がいなくて、誰も永久に使わない物は、だんだんと人々の目の前から姿を消していくのです。「使いたい」という人間の心がなくなるからです。物質は、心に従って変化する道具なのです。

霊とは、心(想念感情)です。心で思った通りに操る道具として物質を与えてもらっているのが人間です。肉体も環境も心に従う忠実な道具です。だから、心が「老いたな」と思えばそうなるし、「自分は病気だ」と思うとそうなる。自分が不幸だと思っていれば、不幸な状態を次々作り出すわけです。肉体も環境も単なる映像で、その状況は、自分の心が放送放映した通りになっているだけです。だから自分を神の子仏の子だと思って、それだけの価値と能力があると学んでいる人は、その自覚した通りの人生を自分の中から引き出して生きることが出来る。いつまでも若くて健康で、世の中に大きく貢献してみんなから喜ばれる、誇りある素晴らしい人生。そういう幸せな生き方を私たちが出来るように、釈迦もイエスもソクラテスも、私たち後進の人類のために教えを説いたのです。


三大聖人という世界的な教師をこうして人類史の最初に迎えていながらも、その素晴らしいメッセージをなかなか現代になっても私たちは生かせないできました。彼らのメッセージの、その多くが霊感、直感によるものですし、科学的ではありません。「科学的ではない」という言葉で、神仏の見えない世界を感じる感覚を大勢の人が葬り去りました。人間や自然界の生命の中に、神様仏様のような偉大で素晴らしく尊い、かけがえのない価値と役割をはっきり見出すこと。その感謝と祝福の喜び。法悦(ほうえつ)。コンピューターがはじき出したような、科学的な根拠や証明といった科学的データに指示命令されなければ、私たちはお互いの生命について理解できず、信用できず、その価値について直感できないのは、現代人の恐るべき退化、劣化、自己破壊と言うしかない。学校教育がそういう無神経で愚鈍な、指示命令待ちの経済ロボットを作った。底の浅い科学に振り回されて、こき使われる奴隷となって、科学というご主人の命令以外には反応できない。人間が主体性を持てない教育を押し進めた結果です。


自分たちが我流で編み出した科学や医学という小知才覚に依存する現代では、なかなか人間のことについて現代人の理解が進みません。なんにも説き明かしているわけでないのに、現代科学が万能だと錯覚して、科学が説明しないことは怪しい事として信じない。神も仏も自分の生命も信じない。目に見えないものを感じる力を失くしている。これは痛恨の極みです。だから、目に見える世界だけだと思っているから、物質の所有の多さが、見た目の多さだけが、死活問題になって、それを争って殺し合うわけです。物質にしがみつくような、気違い沙汰になる。目に見える世界しか知らないから、簡単に一時の五感の快楽にのみ振り回されて、強欲のとりこになる。欲望に振り回されて人間とは言えないケダモノになる。目先の数えられるものに必死になって、お金や資源や領地を奪い合い、今なお戦争の絶えない未熟で野蛮な世の中にしてしまっているのです。魂が幼いうちは、目先の利益だけを求めて争う、物質欲の世界にたむろします。物質に執着して奪い合う。目に見えないような、お互いの心のあり様について内省することはありません。お互いの利益が多いか少ないかで争う、そういう戦争の私欲の醜さは、自分の目に映らない。自分が汚れている事なんてわからない。しかし物質は永遠ではありません。目に見えるものはやがて滅び去ります。それがまた恐ろしいから、失くさないように金庫に閉じ込めるし、取られないように警戒するし、ムキになってもっと集めようとして奪い続ける。物が全てですから、物だけが目当てになる。物を取るためなら手段を選ばない。


分かち合い、与え合う、愛の精神性で、イエスがかごの中の五切れのパンを五千人に分け与えたというような、そういう話が聖書にあります。イエスの説く、神様の教えによれば、愛すれば愛され、与えれば与えられ、生かせば生かされる。みんなの幸せを思う愛の知恵が、物をどんどん増やすという法則を伝えています。愛と言えば、すぐに犠牲と損することをイメージするのが、物質欲に支配された現代人。そうではなく、愛する人が、一番得をするのです。愛とは、目に見えない真心であり、神性・仏性の最高の現れです。物の裏に込められた精神性がどんなものかによって、物は減ったり増えたりする。愛とはそういう人間性の中に秘めている秘儀、秘宝です。出してくれば、みんなが幸せになる。そうではなく、物だけがあると思って、手当たり次第に漁って、人の気持ちや自然環境も無視して、私欲の快楽を奪い取って来る。それでいては人間とは言えない苦しみが付きまとい、自分も世の中も幸せになるわけがない。餓鬼のように感謝も満足もしない、飢えたケダモノのような醜い姿になり、いつもみじめで悲惨でみすぼらしい、不足ばかりの平安のない生き方になっているわけです。群れて寄ってくる人も「同類相哀れむ」で、野獣のように不幸せで、常に腹をすかせてうろつき回る同じケダモノ。その運命も末路も人間とは言えないみじめなものになるでしょう。


人々は経済戦の社会に慣らされて、欲望に振り回されています。学校でも調教されて言いなりになっています。それで正しいのだと、わかったようなつもりで生きていて、ソクラテスの例えのように、わかったような顔をしていることを指摘されることには腹を立てて、救いの手を自分で遮断して、学ぶチャンスを捨てています。また、老・病・死・罪・貧など、生きていくことの四苦八苦は当然の事として自覚して認めてしまっています。これは、人間の人生の上にあらぬ罪の濡れ衣を着せて、人間を有罪にして悪者に仕立て上げているのです。自分で自分を悪者にして、被告席から動こうとしない人生の敗北者と言ってよい。つまり、それらは長い間に積み重なった悪業(あくごう)になり、人類の信念として人類の潜在意識として途絶えることなく、現代人を不自由に拘束しています。自縄自縛の不幸です。自業自得です。つまり、どんなに神の子として素晴らしく生まれついていても、どんなに潔白で清浄で偉大な身分だろうとも、それを全く知ろうともせず、それを信じないで頑迷に不幸の牢屋の中に居続けています。「俺が神の子? バカ言うな。人間ごときがそんなに偉いものか。神なんて作り話」だと、人間の存在を低俗なものだと貶めるばかりでなく、神の存在を疑っている人はたくさんいます。でもそういう姿勢が真実でなくてまちがっているからこそ、人は人生を苦しいものにしています。まちがったことを正しいと思い込むことで、うまくいかない不幸な社会も続行させてしまう。


太陽系という、すごく大掛かりな装置ね、これも宇宙からすればほんのちっぽけな一部ですよね。でも私たちにとってみれば広大な太陽系のこの仕組みが嘘のような作り話ではなく、この中で私たちは実際に生きているのです。

考えてもごらんなさい。何でもいいけれど、人間がちょっとした仕掛けを作ろうとしても、考えを練って練って練り上げる。知恵を振り絞り、創意工夫を凝らして、図面を何枚も書く。工作機械で部品を作っていく。何個も何個も部品を仕上げる。各部署でそれを組み立てていく。パーツパーツを合わせていく。完成したら試運転をする。何度も試運転を繰り返し、不具合や弱点がないか点検する。塗装などして商品として市場に出すまで、どれだけの時間と手間がかかるか、物作りとはそういうものでしょ。だったら、この太陽系一つ取って見ても、これが偶然にたまたま出来上がって、偶然にたまたま地球という星も生まれて、偶然にたまたま私たちが今存在して生きているなんて、そう言って済ませてしまうのは、よほどどうかしていると思います。巨大な天体が、休みなく同じ軌道を行き交うのにも、ものすごい緻密な計算と、ものすごい力が働いている。そういう計り知れない知恵と力と計算が働いて、宇宙も地球上の大自然も維持管理されている。私たちの車社会の交差点ですら、事故や衝突が起きているというのに、太陽系の星同士がぶつかるなんてことがないわけです。偶然たまたまできているものなら、規律正しい同じ運行などありえません。私たちのバスや電車にもダイヤがあるでしょ。太陽系にも巧妙精緻(こうみょうせいち)な規律があるのです。だから、人間の知恵と力をはるかに超えた神秘のその働きを、古来から天と言い、神様と言い、仏様と言い、そう呼んで敬い感謝し、恐れもしてきた畏敬(いけい)の念は、人間として一番重要な正しい感覚だったのです。少しばかり我流の科学技術が発展したからといって、底の浅い幼稚な成果です。この世の何も説き明かしていないし、永遠にできない。なのに、たいへんに驕り高ぶり、有頂天になり、天下でも取った我が物顔で、次々無用な危険なものばかり競って開発する始末。これは、神仏が眼中にない狂乱です。何の知恵もない。節操がない。その一番大きな過ちは、原子力です。核のゴミです。放射能汚染です。日本が何度も身をもって知ったはずの、生命に対する脅威。神を恐れぬ製造開発です。いらない。一つ間違うと、死の土地、ゴーストタウンが出来上がる。大気も水も大地も破壊し、汚染されて生きられないような毒になる。生き物がみんな仲良く生きて行けるようにしてもらっている地球は、神様がそうして下さっているとしか言えない、46億年以上もかかった自然環境ですよね。人間の知恵や力では作り出せないものばかりですから、神様のおかげと言うのが当然です。そう感じるのが、そう感じて手を合わせて感謝するのが、本当だと思います。現代は私利私欲の経済競争によって、せっかくの神様の贈り物をどんどん壊していく。

神仏の存在を察する感覚、この直感を失うようでは、神の完全な働きに理解及ばず寄り添うことなく、神に逆らって全部ぶち壊して、現代文明の運営は必ず滅びます。滅びつつあります。今まで学校教育が現代文明の後押しをしてきた。神様の事を伝えたり、語ったりする、そういう授業も学問も現代文明の学校にはない。八百万の神の国であったはずの日本に、今そういう学校は全くない。だから、お互いが神聖な存在でない以上、いじめても虐待しても殺してもかまわない。そういうのが現代文明の教え子です。教師同士が虐待し合っているのだから。

神戸の小学校での事件。あれからも続々と、教師同士の争いが各地で話題になっていますよね。話にならない。


神などいないという者たちは、その通り神も仏もないような、ひどい人生に終始します。それで苦しく悲しいのは当の本人たちなのです。


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3・林竹二先生の遺志を受け継ぐ

ネットでの紹介には、林竹二(はやしたけじ)先生は、「教育哲学者」というのを見かけます。宮城教育大学学長だったこともあり、参議院の法案をめぐって議会で林先生が意見を求められたこともあります。その時は国の公教育が非教育だと、林先生ははっきりと指摘された。教育大学学長のお立場でそれを堂々となさったというところが林先生の哲学です。「人間としてある」、「人間としてあり続ける」という事が人生においてまず何よりも尊重されなければならないからです。ソクラテス、プラトン、田中正造は、ライフワークというべき先生の生涯をかけた研究でしたから、生きた哲学を自分の生きざまで見せておられたと思います。

明治時代、足尾銅山の会社、その一企業を守って、周辺の自然環境やそこで暮らす村々の生活を壊しても鉱毒被害を見過ごしにする、そういう政府の姿勢に対抗して、田中正造が猛烈に反発した議会演説がありました。山も川も汚染されて荒廃し、人々も倒れて死病を患い、とても生きてはいけない。国の近代化と経済発展を優先する明治政府にその声は届きません。政府のこの体質は、チッソ水俣病などの公害へ引き継がれ、2000年以降も東電の原発問題へとつながっています。これと同様に、国が進めてきた学校教育の現場も、林先生は汚染された環境破壊ととらえて、子どもたちの人間性が死に瀕(ひん)している危機的な状況だと、林先生は訴え続けてきた。子どものいじめや虐待、校内暴力、学級崩壊、登校拒否、自殺は、教育現場が子供の生きられない場所になっていることを示している。


地球が太陽系の中で唯一、光と水と空気、そして豊かな大地のおかげで、生き物が生きられるような環境に地球だけがなっている。それは、神様がそうして下さっているとしか言いようがない。子どもの生命もまた、神様からの授かりもの。幸福な人間社会の創造のためにも、子どもの人間性の中に秘めた神性、仏性を引き出して、人間らしい成長を助けることが教育の目的。しかし、今の文科省の指示命令は、富国強兵を掲げた軍事教練と同じ。学校は人間性破壊工場だと林先生は痛烈に批判しています。経済大国とは、国民が経済のための産業ロボットにされることです。それでいては神性も仏性も尊重されない。利益のためには、儲けのためには、仕方なく良心を捨て、人間性を殺さねばならない。事故も事件も自殺も殺人も、病気も公害も環境破壊も、苦しくて悲しいあらゆる災いはそこから発しています。それでも政府は果てしない儲けの追求、経済拡大のためには手段を選ばぬ非人間性の経済戦争をこれからも続けるつもりです。浅はかな私利私欲で国の素晴らしい宝物を生かさないで破壊することは、神を恐れぬ狂気の行為で、決して許されることではない。そのことを林先生は、田中正造の講演でも語っています。学校の非教育の悲惨さを見かねて、晩年には、1970年代だったと思いますが、各地の学校へ出かけては、子供たちのための授業をなさいました。その幸せな時間を子供たちは思い思いに感想文に残しています。


ただ決められた一定の受験知識を連呼するだけですから、すでに教師が産業ロボットになっているのです。意味もない断片的な語句や単語などを垂れ流して押し付けることが、文科省の名のもとに、そういう一方的な一方通行の作業が仕事として認められてしまっている。子供は無理でも従うしかない。今の教師はそういう権力者であり、特権階級の上官です。逆らえば生徒のその後の立身出世に響くような、内申書を書く権力もあるから、その圧力で子供たちを従わせている。「先生の授業はつまらないし、何の役にも立たない」と言って教室から出ていく市民権さえ子供たちにはない。お金を払って見に行った映画がくだらなければ、私たちは自由に席を立ち、映画館を出ていくことは自由です。本当の立場なら、親が学費を払って来てくれている、教師にとって子供たちは言わばお客様です。そのお客様のテストの点が悪いからと、責められるのはお客である子供のほうだけです。何か問題があっても、多くの場合生徒が第一に責められます。生徒の親も責められます。教師が実名を公表されて重い責任を問われ、矯正指導を受けて、強制的に変わることを命じられることはほとんどありません。こんなお殿様のような、お大名のような仕事は、教師だけです。これは文科省という国家権力を後ろ盾(だて)にした特権階級だからです。教育の主役であり、大切なお客様であるはずの子も親も、国策に従うべき奴隷なのであり、教師という上官の下にひざまずく下位の下級の階層に位置しています。主権者とは言えないような状況です。


犬がお手をする。それは主人が絶対権力を行使して、犬にそうするように仕向けた結果です。犬が自分で考えて自分から主体的に好き好んでしているわけではない。ただの調教訓練で犬が受け身で主人に従っているだけです。今の学校も人間の子に対して犬のような扱いをして、家畜のように扱っているわけです。大人になってストレス過多になって病気になってでもいいから、とにかく働いて儲けを追求しろと、子どもの頃から犬のようにフリスビーを投げられて追いかける訓練をされている。高い社会的地位もお金持ちも、勉強していい大学を出れば手に入り、そうなれば、欲望も快楽も思う存分にかなうし、好きなだけ味わえる。低俗な人生観のようなニンジンをぶらさげて、学校が子供に対して経済競争へ駆り立てる場所になっている。逆らえば、道がない。何の保証もない。何の幸せな選択肢も他にはないぞと、脅迫しているのが学校の圧力です。学校が経済競争に拍車をかける原動力になっている。勉強していい学校へ行く以外に幸福はないという風潮にしておいて、有名大学へ多くの生徒を送り込んで、進学率を上げることが学校の名誉になってしまっているわけです。それが事実です。

要は、教師が覚えろと言った受験知識を言われた通りに覚えればいい。それを教師から質問されたり、テストで問われたりします。その時に子どもは適当な形で、暗記したことを「オウム返し」の要領で出せば、優等生としてほめられる。参考書の丸写しやら、進学塾で聞きかじったことやら、学校で他の子が知らないようなことを発表して「よく知っているな」と評価されて優越感に浸る。言われたことをそのまま尻尾を振って取り組み、エサをもらうわけです。教師が右手を出せば子どもも犬のように右足を上げるなどして、今の学校教育とは、教師の合図で決まった反応ができるようにする調教訓練です。それを子供らは競争させられながら、早く早くと急き立てるように命令されて、一心不乱に身につけることを強いられる。教師も威圧的に命令しますし、子どもに疑問や反発の余地など与えない、熾烈(しれつ)なカリキュラムです。親子懇談では親を責めて急き立てて、親からも子供にムチ振って勉強させるように仕向けます。

多くのペーパーテストも設問の聞かれ方、問われ方によって、どう書いてどう答えたらよいか、答える形が決まっていて、それを丸暗記するわけです。設問によって、「質問がこう来たらこう答えるし、こう書く」という一定のパターンを暗記していて、設問を見ただけで反射的に反応して書く。それが点数になる。それは、子供が主役の子どものための教育ではなくて、一定の決められた受験知識に子どもが合わせて、受験知識のほうに子供を従わせる権威があるわけです。子どもは受験知識に使われている道具に過ぎません。受験知識のために生きているようなものです。子供の人生はその手段にされてしまっている。そのことについて、教師も親も正しいと思い込んでいて、少しも悪い事だと思っていない。この無神経さがやっかいなんです。やっていることの本質が見えなくてはなりません。教師も給料がもらえているからでは済まされない。毎日繰り返しやっていることは、子供の中の人間性を引き出して成長させる、そういう教育的なことではないわけです。あらかじめ、すでに一定の決まったものがあって、それを子供が無理にでも覚えてそれに合わせなければならない。人間的な成長とは関係のない、栄養も何もない石ころを子どもは強制されているのです。国の権力を身にまとった教師が手先になって、それを高圧的に強制しているから逆らえない。それはまったく勝手で恣意的なもので、経済戦のための軍事教練であって、教育ではない。それは、経済戦線に立つ兵隊、社命なら何でも従う会社員になる準備と言ってよい。だから、学歴は人格を保障しない。黙って要領よく石ころでも何でも食べつくす、無神経で無感覚な非人間的な機械人間が、国の経済には必要なのです。


調教されて従順に従うペットのような、大人しい優等生の単なる暗記した答えにおぶさって、たくさん発表させて、ああ、いい授業になったと、ベテラン教師はいい気持ちになって涼しい顔をしています。こういうのが論外と言うのです。教師はご自分もそういう経験しかしてこなかった。だから勉強することの意味がわかっていない。苦しんで、そういう苦渋の末に退学を願い出る子供に対して、学校がイヤでもせめて高校ぐらいは出ておけと、教師はよく言います。高校中退なんてダメだと。最終学歴が中卒では、その後の経済社会において、まともな就職先がないから苦労させたくないと、教師は言います。最低限でも子どもに高卒を勧める助言をして「生徒の可能性を広げてやりたいからです」と、仏顔(ほとけがお)で言っている。

しかし教師そのものが、現代の高学歴・高収入・厚待遇を象徴する比較的安泰な職種でもあり、終身雇用の公務員でもあり、自分のうまい世渡りを模範として正当化して言っているのではと思います。将来の高収入、厚待遇のために学校に我慢して行かせる。我慢してしょうもない勉強をさせる。今の経済政策を変えないために、経済だけの可能性のために子供たちをがんじからめにする。それは、学校も経済政策を支える下請けとしての役目を続けるためです。それでいては、いつまでも経済戦に特化した兵隊のような子だけを作り続けることになり、国や国民の可能性を閉ざしているのではありませんか。経済社会に有利だから学校へ行きなさいと言うのでは、学校が単なる私利私益を目的にした、功利目的の腰掛け期間に過ぎない。あからさまに進学や就職だけをあっせんする場所になり下がり、学校が経済に特化した専門機関になっている。これでは、どんな立場の生徒にも、人間としての人間になるための平等な教育を保障する憲法とは違う。政府が政府の権力を維持し、国民の幸せや意思がどうであれ、今の経済政策を続けたいがために、今の学校教育を置いているようなもの。それは、経済戦争に勝つロボット作りのためだけの公教育です。

今の国の仕組みなんて何の絶対性もなく、もともと国民には国民の手で自由に国の仕組みや国の行く先を変える権利と義務がある。それをいつも自由に行使して、国民には、私たちには、今よりもっともっと幸せになることができるし、そういう力があるのです。それが国民主権です。その大きな可能性をつぶしにかかっている実行部隊は、他でもない学校であり、学校の先生ではありませんか。


人間性の本質は、深いところにしまっている神性、仏性であり、その宝物を引き出すために教育があります。私たちの本性は、神仏と同じで、全知全能の神仏から、地球の幸せを実現するための知恵と力をインスパイアされます。霊感であり、直観の領域です。それもこれも神の子仏の子の強い自覚があってこそインスパイアされるのです。

とりわけ、神仏の本性は何よりも第一に愛です。愛とは世のため人のために尽くせることで、自分のやり方で自分にしかできない能力で愛を発揮する偉大な価値を一人一人が授かり、世の中を幸せにする個性的な力を持って生まれています。その愛を発揮するために生まれてきたのです。それを果たすことは何よりの生きがいであり、最高の生きる喜びです。このように、自分が素晴らしいかけがえのない人間だと自覚して、その通りに自分を生かして生きることが、主体的に生きるという事です。人生を主体的に生きてこそ、自分を愛して自分を大切に思えますし、自分を心から大事に思えてこそ、他者も同等に大事に思い、かけがえなく大切にすることが出来るのです。

自分の中の神性、仏性を認めて自覚して、その自分を充分に生かして生きて行こうという、その主体性によって、生き生きと自分の能力は生まれ出てどんどん増えて、ますます世の中に貢献するでしょう。自然に次々と新しいアイデアが素晴らしい知恵となって脳裏にひらめいてもたらされ、そういう霊感も直感も泉のように湧いて、成功と成果の実りに満たされます。つまり、神の子の自覚にあふれ、神の子の生き方をする人間に対して、親である神が見えざる手でそれを助けないわけがない。神仏がいつも自分に付き添い、神仏がいつも自分の中にいて、神仏が親のような味方なのです。親子は一つになって、愛の輪を拡大していき、人生に次々と幸運を招きます。

愛とは、神性、仏性を主体的に生きる人間同士の間で協力し合い、愛し愛される豊かな暮らしを実現します。そもそも学校での集団活動とは、人間同士が生かし合い愛し合う喜びの関係を体験させるのが目的です。ところが、学校でやっていることは、つまらない断片的な知識を山ほど丸暗記させる機械的な作業の競争と順位付け、上からの指示命令に一定の決まった反応を強制的にさせるような調教です。子供の主体的に人として成長していこうとする、その息の根は閉ざされます。経済のためのロボットとして言いなりになる、隷属的(れいぞくてき)な、従属的な、そういう操り人形が世の中を埋め尽くすのです。世の中が今真っ暗だと思う人は、人生が今真っ暗だと思う人は、そういうことが原因になっていることを知ってください。本当の自分を生きようとしないうちは、本当の明るい幸せはありません。愛とは主体的な人間の行動です。何者かに支配されて重い鎖につながれた人間にはできません。隷属、従属の暮らしに慣れてしまうと、自分が人としてどう生きたいのか、どう生きるべきだったのか、わからなくなってきます。一体、誰のために何のために生きているのか、わからない。上から常に指示されて命令されないと、動けなくなります。自分の意志がわからないのです。何をするのにも、上から決めてもらわないとできない。上からの提案がないと自分では何もできない。日本国民の異常な依存体質は、公教育の狙い通りです。黙って大人しく従い、何でも言う事を聞くように育った。主体性のない国民には民主主義など運営できません。主体的に生きることがなければ、自分の人生も始まりません。主体性の欠如とは、人間として自分に責任が持てないのですから、誰かに依存して責任を取ってもらう事ばかり考えています。自分に責任が持てない人の集まりが日本です。責任が持てるような教育がない。学問もない。あるのは無責任な競争だけ。

学校の調教を真に受けて従い、妥協してこびへつらうことばかり覚えて、人間になることをやめてしまい、主体的な魂を売り渡して、神性仏性を閉じ込めたままでいては、そういう人々が作る人間社会が幸せになることは絶対にできないのです。


人として大切な研究だと思って打ち込んだ勉強なり仕事なり、それは授業になると林先生は言っています。

勉強して自分の血肉にして自分のものにするという前提で、本などで発表されている他人の研究成果を使ってもいい。石ころではなくて、子供が食べて喜んで成長するパンを与えなさいということです。自分が作ったものでも他人が作ったものでもパンに変わりはない。人の成長に役立つものです。それを週に1回でも2回でも、生徒と一緒に人間について考えていく授業をすべきだと林先生は言っています。そうすれば、子供たちは学ぶ喜びを知って、子供たちの顔が変わる。それを見たら、教師も感動してうれしくなって、そういう授業がやめられなくなる。もしも今の教員に子供を育てさせていただく良心が残っているなら、それはできるはずなのです。余計な雑事に追われて何もできないとこぼしているうちは、もはや教師とは言えない。


人間として育てて、人間として生きぬかせていく、そういう人間力を引き出す教師の仕事は無際限に重い責任があります。聖職なのです。どこかから写してきたような、ただ丸暗記したような知識を子どもがひけらかしても、林先生はそれを本人の中に何ら根ざさない、根拠のない「借り物の知識」として拒みました。そしてその子供の考える自分の言葉を引き出そうとします。子供はこのことを授業後の感想文で言っています。林先生の授業は、いつものように〇か×ではすぐに終わらないで、心の底からわかるまでどこまでも教えてくれる先生なのだと思った。今まで本当には人間の事がわかっていなかったという事を知れてとてもうれしかったと、子供は正確に授業の質を分析しているのだ。

林先生がソクラテス研究の第一人者であり、先生の授業はさながらソクラテスの「魂の世話」を再現するものです。かんたんにニセモノの答えを許さない。借りてきた答えは認めずに、本人の答えを探って待つのです。それは子供には今まで経験したことのない教師の真剣さとやさしさです。そうして子供が自分の力で自分の意志で先生と一緒に問題を追究していき、答えを見つける。先生と一緒だから、自分たちだけではたどり着けないような答えを子供たちは問題を追っていく中で発見する。それが成長する体験です。ハイハイしていた子どもが親の介助を得て立ち上がるように、子供が成長して変化する喜びを味わう。それが勉強する感動です。その勉強の喜びを、今までさんざん受けてきた授業と違って、「あっというまに時間が過ぎた」という表現で、子どもが授業に打ち込む高い集中力を物語っています。もう一度林先生と一緒に勉強がしたいというのは、ほぼ全員の子に見られる感想です。いつもの借り物の知識が飛び交う授業なんて、発言が多かろうとどうだろうと、ただの見せ物です。くだらない茶番劇です。子どもはいつも散漫で退屈しているけれども、先生が怖くて行儀よく座っているだけです。先生の顔色をうかがう拷問が、子供にとって日常の授業なのです。しかし、子どもたちのおどろいたことには、林先生は偉い学長さんなのに、子供たちが無我夢中で食べて消化して自分の身になるご飯を出してくれた。今まで見たこともない御馳走(ごちそう)を出してくれた。子どもは幸せです。子供は人として生まれ、人間に成長したがっていて、栄養になる授業を必死に求めているのです。にもかかわらず、経済優先の政策の下請けたる学校の要求することは、非人間的な経済競争の兵役です。林先生が授業後の感想に触れて、ふだんの授業での子どもの不幸を感じるとき、我慢して1日何時間も座り続けなければならない子供の思いを知るにつけ、林先生も幾度も泣かれました。


「学校の成績が下がったので死にます。おばあさん、お父さん、お母さん、ごめんなさい」と自殺した中三の男の子がいました。成績重視の教師の威圧というものは、成績が人間の命よりも重いことを子供に突きつけています。また、いじめで死んだ子供たちが、隠し持っていたメモやノート、サイン帳などには、多数の同級生から書きつけられたひどい言葉が並ぶ事例が多いのです。一例としては「一生のお願いですから死んでください」と書いた女の子がいます。こういう子の精神疾患こそ重症で、「こういう言葉を同級生に対して書いてはならない」と自制するような、正常な判断もできなくされている。狂っていて、とてもまともな精神状態とは言えない。これを知った教師の中には、『漫画などの影響で「死ね」とか「馬鹿」はめずらしくないんだ。これには特別な意味は何もない』と一蹴した者がいる。


確かなことは、学校側としては、死んだ子にも死なせた子にも責任を取らないといけないと思います。子どもは全員被害者です。教師は全員が加害者です。学校は子供の命を生き生きと成長させるための場所です。この絶対前提に反して、学校が殺し殺されるきっかけを与える不幸の温床となってはいけない。学校職員は全員責任を取らないといけない。


成績や点数を振りかざして、子供を裁いて責め立てる教師に対して、子供は命を脅かされ、強迫されるようなひどい圧迫感と恐怖心を持っています。だからすでにそこで、教師に対して心を閉ざしてしまいます。毎日顔を合わせて過ごすわけですから、子供は教師の正体を見抜いてしまいます。どの子も自分にとって教師が高圧的で理不尽な独裁者であることを知っています。教師は軍隊の上官に等しい。自分たち子供の事を何も考えていない。教師は自分の都合しか考えていない。自分たち子どもの心の中を思いやれるような、細やかな感受性も持ち合わせていない。その絶望的な悲しみと苦しみ。もうそこで信頼関係などない。そういう虐待された関係を毎日我慢しているうちに、教師から抑圧されているそのストレスが子供の人間性をじわじわ壊しているんです。だから荒れて、八つ当たりするし、いじめるようになる。いじめられた方も、いじめがあっても、教師に心を閉ざしている子は相談しない。相談すれば、もっとひどい事態になって傷つく。ちゃんとした味方にはなってくれない。


昔から軍隊の上官という者は、気に入らないとすぐに殴(なぐ)って、それで済ます。学校の教師は今もこれを脈々と受け継ぐ権力者です。兵隊の見習い同士のもめ事なんて、軍規違反としてすぐに全体責任です。体罰として、一列に並べて思い切り殴る。それで終わりです。根本的ないじめの原因なんてうやむやになる。子どもたちがやっかいな問題を起こさないように、教師がいつも恐怖の大王のように威圧感で君臨し、見せしめに殴る蹴るの暴力で統制している。だから教師なんて高みにいる抑圧的な管理者であり、特権階級であって、親身な相談相手ではない。そういう立場にはいないのです。

学校は子供が居心地よくいるための場所ではない。政府のため、教師のためにある。それは脈々と生きる不文律(ふぶんりつ)。子どもは全員、大人しく言うとおりにしていればよい。ロボットのように指示されたことだけを忠実にこなしていればよい。それ以外の事をして騒々しい問題を起こせば、全て軍規の違反と同じです。学校と教師の面子(めんつ)がつぶれることになり、世間から批判されて、評判を落とす。そういうのは学校と教師にとっては迷惑で困るし、邪魔になるだけで、そういう場合は自分たちが被害者だと思っている。そういういじめとかの問題を起こす生徒同士の処理まで自分たちの仕事ではないと思っている。いじめや虐待という犯罪がはびこる原因は自分たちと無関係と思っている。

教師はただ国から教えろと言われたことを教える。それだけが仕事。そこに大きな権威がある。教師も役人と同じで行政を後ろ盾(だて)にしているからです。だから市民に対して上から目線の所がある。つまり、生徒も学校に来たら黙って大人しく授業を受けて、行儀よく教師の言う通りに従うのが当然。それが生徒の責任であり、務めなのだと思っている。それ以外の事は教師は全く責任を負っていないと考えている。いじめも悪いのは子供同士であって、そういう子供に育てた家庭に問題があるのであって、学校と教師は関係がない。そういう確固たるスタンスなのです。いわゆる兵学校の上官として、国から教えろと言われた命令通りの事だけをこなす。親も子供も黙って大人しく行儀良くさえしていればいい。今の教師なんてティーチングマシーンだと揶揄(やゆ)されてきましたけれど、本当にその通りにしているわけです。国の命令ですから、絶対的権威ですから、それをその通りにしているだけの事で、国の命令通りにお前たちも大人しく従っていかないと、その先はどうにもならないぞという、生徒に対する無理強いと脅しです。それが正当化されている。学校と教師は、たいてい何が起きても加害者や罪人にはならず、行政の権威に守られて、いつも正しい立場になっているのです。

だからそういった学校の環境ですから、冷徹(れいてつ)な公務員然(ぜん)とした教師との冷たい関係を子どもは承知しています。教師は子どもにとってカーストの最高位に位置していて、特権階級の威圧的な存在です。何を相談しても親身な回答は得られない。だから子供たちは問題があって言いたくても言えない空気を感じて取っています。死ぬ前になぜ相談しないのか、よく言われることですけれど、まずそこには、特別権力者の教師に対して、いつも身をすくめて過ごしている、なにも逆らえない日常がある。子どもたちはそういう教師にはっきりとものが言えないし、目の前に立って威圧を感じると、イエス、ノーをなかなか正直に言い出せない苦しみもあるわけです。


被害児童の親からいじめの連絡を受けた教師が、加害児童と思われる子に本当にいじめたかどうか聞きます。いじめているのに「いじめていない」と子どもが教師に答える。なぜ個別にそんな聞き方をするのでしょうか。他にやり方が浮かばないんですかね。また、一言二言、子どもからオウム返しに聞いたことで済ませる。雑ですね。刑事の取り調べですね。刑事には犯人を逮捕する、法による警察権力があります。権力者、権威者に対して、私たちは自分の立場を悪くすることは言わない。教師も同じです。権力、権威という圧力を身にまとって、ふだんから子供と接しています。行政がそういうふうに教員を作っているからです。そのことを忘れるから、いじめなどがあった時に、目線を下げて子供の人間関係の中に入っていけず、まともな仲介役もできないまま、刑事の職務質問みたいなことをして終わってしまう。子どもが本音を漏らすことはないです。

とっぴな例え話をすれば、王様のような権威が、民間の人間関係に首を突っ込んでも、何一つできることはありません。世界が違う。つまり今の教師と生徒とは世界が違っている。少なくとも学校という場所で、自分がふだんから見下して威圧している子どもや親たちのことなど、理解することはできません。どんなに追求したとしても、子どもも親も本当の事を言いませんし、本当の気持ちなど王様ぶった教師には洞察(どうさつ)する力がない。人様の顔色を読む力などない。

子どもと親の幸せのために、教師が子と親に仕える召使いのように思っているなら別です。使われる立場であるなら、もっと器用に上手に考えて立ち回ることが出来るでしょうに。多少でもそういう気持ちがある先生なら、いじめの被害はなくなる。死ぬ子はなくなる。王様は権力をふりかざして支配することは知っていても、万民のために使われる立場にはなれませんし、できません。そのせいで国民が死んでいっても、自身の無能には蓋(ふた)をしてうやむやにしてしまい、国民の犠牲を当然のような顔で見ています。それは、民主国家ではない。公務員は「国民の公僕(こうぼく)」と言われる仕事。それは、滅私奉公であり、至誠一貫が信条のはずです。公務員がまるで王様になったかのように、保身のために圧力をかけていては、国民のためになる仕事は一つもできない。

世界的に人類の文化発祥の地、古代ギリシャ。一般の家庭には、子供に寄り添わせる奴隷がいました。学校の行き帰りや授業にも付き添わせて、子供の面倒や世話を任せていた。子どもに危険がないように護衛させていたわけです。家に帰ってくれば授業のおさらいなんかも一緒にしてあげた。で、この奴隷を「パイダゴーゴス」と言っていて、子どもに連れ添うというような意味があって、それが教師(ペタゴーグ)とか教育学(ペタゴーギックス)とかの語源になっている。当時も学校で専門知識を教える教師はいましたけれど、パイダゴーゴスのほうが教育という点ではふさわしい在り方だという事でしょう。言葉の起こりとは、実に正確で正直なものです。

社会的地位にもかかわらず、子どもよりもなお目線を下げることが出来る柔軟性。子どもの存在を尊ぶがゆえの、目下の者として仕える敬虔(けいけん)な気持ち。それでいて初めて子供の心がわかり、子どもを守り、子供に手を貸すお世話ができるのです。それが教育の原点なのです。


昨年11月、仙台で母子の無理心中がありました。いじめがひどいからと被害児童の母親が何度も学校に相談していた。すると教員は、被害児童の手を引いて連れて行き、加害児童の手につながせた。その後で「今日握手をして仲直りしましたよ」と相談者の母親に報告しています。ところが被害児童は家に帰って「(いじめのことはあいまいにしたままで)先生から無理やりにさせられて嫌だった」と告げます。結局いじめはなくならず、母親の学校への相談は半年以上に及びます。両方の家の親と子が同席して納得いくまで話し合うべきとする、相談者の強い希望もかないません。そういうふうな、いじめを根絶するような仲介を学校が取り持つことをしない。両家が物別れのまま、学校はだらだらと事態を引き延ばしにします。「いじめなんてお互い様だから」というのが学校の言い分で、加害者側に対する的確な指導はなかったと見えます。だからいじめも終わらない。威嚇するような暴力、にらみつける行為、無視や仲間外れ、ひそひそ話など、被害を受けた小2の女児にとってみれば、非常に苦しい半年間で、学校を休みがちになり、頻繁(ひんぱん)に死にたいと口にするようになった。毎日その娘に母親も必死に寄り添ってきた。最後は、夫に遺書も残さず、精も根も尽き果てたように母子心中で亡くなります。

@年明けに学校は保護者説明会でいじめのあったことを認めています。しかし子どもに握手を強要したことは否定しました。

A亡くなった小学2年の女児が生前に書いた、いじめが辛くて死にたいという内容の手紙があります。母親はそれを校長に見せるなどして娘の苦しみを必死に伝えてきました。しかし、無理心中の事件後にその手紙について聞かれた校長は、その手紙はいじめについて書かれたものではないと、持論を展開しています。


@について。

この母親は、寝る間も惜しむように、半年にもわたる学校や教育委員会とのやりとりを、170枚のレポートに詳しくつづっています。仕事で忙しい、帰宅の遅い父親にも読んでもらうためです。娘の笑顔を取り戻すためには精一杯頑張るという母親の姿勢ですね。これが学校側にはただのクレーマーであり、いわゆるモンスターペアレントにしか映っていなかったと思います。とすると、これが非常に軽率です。たかが小さな子供のいさかいに親が血相変えて乗り込んでくる。「いじめ」なんて、道でちょっと当たってすれ違うくらいの、被害者も加害者もない「お互い様」のことなんだから、という軽い調子です。

その上で、子どもを蚊帳(かや)の外にした、何の予告も打ち合わせもない「握手する会」というような催し。事態をどんなに甘く見ているか、これでわかりますよね。手っ取り早く自分たちが騒動の幕引きをしたいためだけに、そういうものを勝手に用意した学校側の自己満足、自己本位。もはや子供の身になって考えることなど、どこかにすっ飛んでいってますよね。だから、やっかいなものを苦い顔してさっさと片付けるような、小手先の処理で早く終わらせたい意識を感じます。我が校でいじめなんて、とても不本意で恥ずかしくて、早く隠してしまいたい。いつも学校は体裁とか面子(めんつ)を第一にする。早く何もなかったことにしたいのです。運悪くいじめ騒動に巻き込まれてしまったという、そこには教員の被害者意識を感じるのです。だから本当の被害者である親子が早期に救われない。いじめを続けた加害児童も、粗暴な行為を直せなかった被害者です。学校の事なかれ主義の隠蔽(いんぺい)体質は、プロの教育者の集団ではないと、自ら表明しているようなものです。


Aについて。

はっきりと子供の文字で「いじめ」や「しにたい」という痛ましい言葉が繰り返し並んでいる手紙です。8歳の女の子が苦しい胸の内を必死で書いている。わざわざ母親が学校まで校長に見せに来た手紙です。でも校長に言わせるとそれは、夏休みの宿題をしなくてお母さんに怒られたからなんだ。だから校長の裁量で宿題を免除してあげたんだと言っています。子どもの手紙にそんなことは一切書いてない。すでに、死人に口なしで、校長は何とでも言えます。手紙の内容、それをその通りに汲み取るわけにはいかないんだという、校長は何かバリアみたいなものを張って防御態勢にあるのだと思います。ある母と子が、いじめがあると騒いだのも、死んでしまったのも、原因は家庭の問題だとすることで、世間の視線をずらすことが出来れば、学校はそれに越したことはないのです。だからやはり、校長自身もいじめ騒動に困惑している被害者の立場を装っている。

「死ぬのはそっちの家の事情であって、学校やその他の父兄には何の関係もない。何の責任もない。ただただ迷惑なことだ」と。そう言っているような印象を私は持ちました。自分たちは無傷のままで、事なかれ主義のまま終わらせたいという意識が校長から滲(にじ)み出している。

校長も学校側も自分たちが被害者というか、元々学校側が行政の仕事として国の権威を笠に着ています。一般の国民に対しては、平民風情(へいみんふぜい)が国の教育体制に物申すな、口出しするなという権力者気取りです。明治以降、長い歴史の中で、国民よりも上位に位置しているという、お役人意識が高いのが市教委であり学校であり、教師なのです。それだけに、一般の市民ごときが、行政に関わる組織や体制にあらぬ落ち度や欠陥を指摘するなんて、百年早い。「頭(ず)が高い。無礼者」と、逆賊(ぎゃくぞく)扱いして切り捨てようとする差別意識がどうしてもぬぐえない。いじめや虐待で騒ぎ出す親子なんて、国家権力に楯突(たてつ)いて、自分たち役人の領域を脅かす侵略者のように見ているはずです。だから何とかできるだけ引き延ばして、大人しくあきらめて去っていくのを待つわけです。被害児童の母親は、何をそんなにぐずぐずはぐらかすのか、何か加害者側に指摘できない事情でもあるのか、学校への不信感を募らせていた。何も対応しないまま、被害者を黙らせるための時間稼ぎをしている。そういう学校側の魂胆(こんたん)を感じ取って、被害児童の母親が「泣き寝入りになるかもしれない」という不安を手記に残しています。

学校には、生徒とその親の苦しい気持ちを共感することができません。自分の立場を危うくしてまで生徒と親を守ることなんてできない。そういう、保身ばかりのお役人が学校で行政サービスをしているに過ぎないのです。学校にいるのは教師ではない。そう思います。


学校は人を人として人らしく育てる場所。いつでもそういう場所にしておく責任を負っています。だから教員にも人としての信用、信頼が集まるのです。そういうところが、各種専門学校とは少し違う。幼少から人間を人間らしく成長させる唯一の機関だから、一人前の立派な人間になるように子供が通うことを国民に義務付けているわけでしょう。またそれを平等な権利だとしているのです。そういう場所でいじめが多発している。人間として最低な行為が横行している。それについて、親子が苦しみ、相談しているのに取り合わない。信頼が生まれるような策を打ち出せない。@の「握手会」というような雑で簡単な小手先の処理しかしない。思いつきかと思うような、そういう子供だましのお芝居で済ませ、勝手に幕を閉じている。お粗末極(そまつきわ)まりない。やはり、子供も親も不在のままで進む教育体制に慣らされた教員の無責任体質です。子どもたちがどうなろうとも、文科省の学習指導要領さえ無事にこなしていれば、それでよいし、それで給料がもらえる。無責任な特権者だと思います。

学校と教育委員会に半年間も相談し続けた親子を死なせた。それだけたらい回しにしたという事です。これだけで充分、罪は重いと思います。


要するに現在の教師は、子と親の苦しみや悲しみを共感できない。そういう立場にはいない。そういう人間性も感受性もない。まさにマシーン化して、学校の部品の一つとして配属されている冷たい歯車に過ぎない。人間的な取り組みはすでに何もできないような人間に作られている。そう思わざるを得ない。この家の父親のように、ある時突然、帰宅したら妻と娘が死んでいる。家族を失う原因になるかもしれないのが学校であるとは、なんということか。


子供は、いじめの被害を受けて苦しくても、下手に情報を告げ口することで、かえって不味(まず)いことになり、痛い目にあわされることを知っています。そういうのは、教師との毎日の付き合いでわかる。一度でも何か相談したときに、面倒なクレームを事務的に処理しようとするような、教師の雑で無神経なやり口みたいなものを感じることが出来る。机上の受験勉強だけしかしないできた新卒の若い身の上で、大した社会的経験も何もないのにすぐに先生と呼ばれてしまっては、人間的な成長もしないのでしょう。いくつもの過去の悲惨な事件はそれを物語っています。公務員的な反応、それ以上のことは教師はできないし、したくない。そのため、いじめを相談されても、マニュアル通りの簡単で中途半端な仲裁に終始する。そのせいで子どもたちは、いじめる側の子どもから逆恨みされて、ひどい報復に遭うことがある。実際、先生に告げ口してから、もっといじめがひどくなり、自殺を選んだ子もいる。

前述しましたような、サイン帳を埋め尽くす憎しみをこめた悪口。就学の生徒同士が同じ人間に発する言葉ではない。それを堂々と学校で書いてしまうほど、いじめる側の子も相当に人間性が病んでしまっている。そのことに対して、責任を感じる姿が教師に見られない。何の内省もない他人事になっています。だから、死んだ子たちが浮かばれないような、死んだ子の親たちも傷つくような、まるで加害者の子たちを擁護するような前述のコメント。子どもたちが自分の気に入らない相手に対して「今時、死ねもバカも普通ですよ。別になんにも問題はないです」とするような、事なかれ主義の無責任なコメントをずけずけ言える非人間的な神経ですからね。この教員は、一体何のために教師を目指してなったのか。


晩年だったでしょうか、林先生は、子どもの心の中がわかることが、教師にとって大切な感受性だと言っていました。子どもの心がわからないと、無神経な姿勢や言動で子供を傷つけて、子どもが心を閉ざしてしまう。そうなると授業をすることは教師にとって致命的です。子ども不在の授業なんて、授業ではない。

また、特に大切なこととしては、子供の中に神の子が見えなくてはならない。見ることがすぐにできなくて、見ることが難しいようでも、見ようと努めないとだめだ。それが教師の絶対条件だとしていました。それがないと教師とは言えない。まさに聖職なのです。神様から子供の命と成長をお預かりしている立場です。世の中がどうであろうと、政策がどうあろうと、学校だけは一歩その中に入れば、子供が見事に神性を伸ばして人間性を高め、素晴らしい人として成長することを何よりも優先して、学校は子供が人間になることに主眼を置いた聖域でなければならない。学校は子供が生きるためにある。それがその通り尊重されていれば、何の問題も起きるはずがない。学校は子供のためにある。本来、教師はそのために体を張る仕事でなくてはならない。


そのためには、教師自身が冷たい産業ロボットから脱して、雑務をこなすだけの毎日を捨てて、尊敬されるような血の通った教師に生まれ変わらなければならない。そうさせて、学校を再生する。その責任を国民全員が背負っている。


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使命へ催促されている。  令和元年10月19日(土)15:00


※特定の宗教や特定の団体に属さない私ですが、「天」や「神」という言葉の持つもともとの大切さを遠慮なく堂々と書き、読者と分かち合うことが出来れば幸いです。


多数の死者を出した19号台風による水害。複数の河川で堤防が同時決壊など、今までに見たことも聞いたこともない被害です。被災者には気の毒な気候変動の狂った猛威。明らかに温暖化による異変が世界中で起きています。やはり、人類は好き勝手しすぎました。生命軽視の私利私欲で暴走し続けた世界経済の戦争は、地球環境の悪化をここまで拡大しています。もう待ったなしで、心を入れ替え、新しい世の中のあり方に変えていかなくてはなりません。


天災とは、天催(てんさい)。催は、催促、催告であり、「せまる。うながす。しむける」の意味。経済一色、経済一辺倒(けいざいいっぺんとう)に片寄って、人らしい道を踏み外してきた世界各国に対して、いまだかつてない津波や豪雨で水を差されているのです。このような未曽有の天催にも、無関心、無神経のままなら、この先の人災天災がいかなる甚大なものになるか、想像すらできない。


教育とは、子供の中の人らしく生きようとする意欲に忠実に従い、寄り添い、人らしい成長を助けること。教師はそのための授業をすることに責任がある。しかし、国が教師に命じて押し進めてきた教育は、この責任を負っていない。人が育っていく上で必要もない無意味で断片的な知識を強制している。

受験知識という、ペーパーテスト用の膨大な量のガラクタを用意していて、それをテストまでに早く覚えることを迫る。教師側もちゃんと教え切れないほどの暗記物を、短期間のうちに子どもたちは覚えるように指示されるわけです。覚えないと、学校からも世の中からも切り捨てられる。だから学校が終わってからも塾へ行って何度も繰り返さないといけない。それでもテストまでに間に合わないわけです。これは、「石ころを食べないと制裁する」と脅迫するような非道な行為で、教育とはかけ離れた行為。仕方なく多くの子どもが我慢してこれを受け入れてきたために、人としての成長を殺し、人としての感性は死に、ロボットのように従う体質になった。石ころのような意味もない知識の羅列(られつ)を毎日つめこまれて、まともな人間らしい神経も感性も保てない。しかも石ころを飲み込んだ量で順位付けがなされ、地位が決められる。経済発展のためには必要な調教訓練だったと言っても、その経済偏重がもたらしたのは破滅型の人間と社会であることが、すでに明白になっているのです。それなのに、誰もこの件の責任が取れないで、今なお転換しない。それが出来ない人間作りをしてしまっているんです。教育が子供の人としての成長を阻害して、子供の精神性を殺しているのです。そうして、人命や自然の命を見殺しにした経済戦争社会を維持しようとする。体制が国民の上にあぐらをかくようにしてしまっているんです。この犠牲はまだまだ続くだろう。国民が主権を主張しない限りは。


子どもの頃からの親や教師の指示命令は、絶対権力。ほとんどの子が逆らえない。だからここまで経済戦争は続いてきた。人が人らしく生きる社会ではなくて、利潤追求の世の中ばかりを追求し、優先し、お金になるような発明とか活躍ばかり賞賛されてきた。裏では、人間や自然の生命を軽視したむごい蛮行(ばんこう)ばかりなのに、その問題には目をつぶり、もみ消し、だんまりで突き進んだ。

自殺、殺人、環境破壊、環境異変・・・。「おかしい。おかしい」と言いながら何も変えない。変えられない。

現在の高い社会的地位にあるリーダーは、経済戦用ロボットで、世の中を変えるリーダーにはならない。ダメになっていくのを、自分だけは厚い札束を握りしめての高みの見物しかできない。政府はその最高機関。


世の中の真のリーダーたちは、利権の下敷きにされていて、何の肩書も持っていないので、なかなか表に出て来ない。優れた人は庶民の中にたくさん埋もれている。それを生かさないような仕組みをわざと作っているとしか思えない。商売人がしがみつく利権を優先する経済社会とはそういうものだ。商才商魂の縄張りばかりが目立つ、私利私欲の策士が経済力の正体だから、まともな人たちは、まともさゆえになかなか太刀打ちできない。バーコードを貼られて店舗に並び、売り買いできるものが、必ずしも信頼できる最高の品質とは言えないのが経済流通である。儲けになれば何だって作るし何だって売る。国民の幸せのためのものを汗水たらして信念で売っていくような頭も使命感もない。

しかし今どんなに埋もれていても、優れた人間性こそは、いずれ頭角を現す。悪徳な利権が幅を利(き)かして譲らない仕組みは、もう長くは続かないからだ。


昔から生まれてきた子供を「天からの授かりもの」「神様からの贈り物」と言っている。私たちの身の回りの物すべてが、そうでしょう。自分で作って用意したものなど一つもない。自分の生命、両親、家、肉体、光や水や空気、自然環境、地球、宇宙、この世の全てが天からの授かりものだ。私利私欲でこれらの宝物を壊すことは許されない。

自分の人生もまた「神様からの贈り物」として大切に扱おうと思い、「自分とは何だろうか。自分を生かすとはどうすることだろうか」と、天から授かった、天から頂いた、せっかくの素晴らしい宝物の使い道を考えるのは、それは当然の礼儀でありますし、感謝の気持ちであるし、当然果たさなければならない、贈り物に対して働かす愛情であり、知恵です。このことを「使命を果たす」と言うのです。

贈り物については、それを自分に贈ってくれた相手の気持ちを何よりも第一に考えて、相手が喜ぶように使うのが恩返しというもの。ましてや自分に人生を授けてくれた天は、全知全能と言われる神様なのです。私たちの事を幸せにするためにこの人生をくださった。そのことの自覚を大いに進めて、深く学ばないと、自分が何のために生まれた何者なのか、その可能性を閉ざして台無しにします。宝の持ち腐れになってしまいます。


人生をくれた神様が、私たちを幸福にしたいと思って、私たちに何を望んでいるか、そのことを考えず、そのことを察せず、そのことを勉強しないでは、人間の生き方などない。そう思うのです。

現代は、その一番重要な柱を立てるのを忘れて、私利私欲の競争で国や社会や人生を作ろうとするから失敗するのです。天や神様の事を敏感にとらえる第六感以上の異次元への感覚が、日本人には鋭いアンテナとして備わり、特に日本の国民には、それが発達した祖先を持っています。人や自然や事物、万物を神様として見る八百万(やおよろず)の霊感を遺伝子として持っています。世界中に天や神様の事を、人間の生き方として伝えることが出来るのは、日本国民の使命なのです。


人を育てる、教育するというのも、天からの授かりものとしての子どもを育てさせてもらうという事です。だから教師は、聖職なんです。経済戦の兵隊として犠牲になってもらおう、愚弄(ぐろう)してやろうというのでは、今の学校にはあきれてものも言えない。最近はよく動画が拡散して、部活の教諭がよく殴ってますよね、子供を。思い切り蹴ったりしている。勝つためだとかなんとか言って、子どもへの体罰を正当化する。その教諭は自分も子供の頃、先生から暴力を受けてきたに違いない。だから、力ずくで暴力に訴えて、恐怖で子供を言いなりにして支配しようとしているわけです。経済社会の下請けらしく、自分本位で、私利私欲で、自分の事しか頭にない大人の見本ですね。だから上官の自分の言う通りにしないと、怒り心頭で、むちゃくちゃ腹が立つ。自分の権威に逆らう子供は許さないし、容赦しない。そういう独裁的な権力者としての絶対的な立場を子供にたたきこみ、あごでこき使うような主従関係を日々作り上げているのです。自分が絶対的な君主ですから、言った通りにできないとすぐ感情的になって相手を傷つけてもかまわない。特に相手が子供の場合、教師よりも腕力は確実に弱いわけですから、それをいいことに簡単に手を出す、足も出す。わざと自分が殴っている子を見せしめにして、まわりのその他大勢の子にも、自分を怒らせるとどんな目に遭うか示し、全員に恐怖心を持たせている。役に立たない者は罵(ののし)って足蹴(あしげ)にするような、奴隷扱いされた子どもの心には一生の傷です。強く抑圧された体験は、子どもの人生に悪影響なのです。その子供がその虐待の傷を背負ってしまうことで、この教諭と同じように自分の都合を最優先して、自分の名誉や地位のために人を傷つける大人になる。つまり、勝つためには人を暴力で抑えつけ、傷つけてもかまわない。動画には怒鳴り声もしているから、その教諭は子供を殴りながら暴言もはいている。勝つためには何を言ってもかまわないという事を子供は教わるわけです。そんな部活で例え世界一になったって、何の値打ちもない。そんな部活の勝ち負けなんてどうでもいい。世の中、ひどくなる一方なんです。


子どもが誕生して「天からの授かりもの」「神様からの贈り物」だと祝福されて、大事にされるというのは、命というものが、神の子であり、仏の子だと実感するからです。この世のすべてが神様から授かった宝物だとわかると、自分も他人も世の中の全部が尊い。この感覚、この自覚が、心の底に信念となって、人間らしい愛と知恵を生み出す幸福の源泉となるのです。お互いを敬って大事にできる社会はそこから作られていく。現代はその信念はありません。だから生命を大切にすることはできません。人を育てる教師が子供を殴る蹴るして、自分の都合に何が何でも合わせようとする時代です。学校の事で子供が死ぬ。死んでも何がいけなかったのか、何も根本的に改めようともしない。それは学校が、国が押し進める経済社会の下請けだからです。自分たち教員は国が認めたエリートだからこれでいいと思っている。

最近はいじめ対策として、校舎の中で生徒の間近に、警備や保安に似た役割の人間が出入りする学校もあると聞きました。これはね、国のやり方も教師のあり方も温存して変えないという宣言です。つまり今までの学校教育の中には一つとして、子供が問題行動を起こす原因なんて一切ないんだ、だから学校も教師も責任を取らないし、子どものいじめや虐待に責任などないし、教育内容を何も変える必要はないという姿勢を見せているのです。だから警察に似た役職をわざわざ新たに設けて、強面の大人に校内を巡回させてにらみをきかせ、悪いのは我々教職員ではなくて、そもそも諸悪の根源は犯罪を犯す子供の側(がわ)なんだから、そういう子供たちを捕まえれば済む話なので、悪い子供を見つけて取り締まろうとする考えです。これでは、学校も教師も自分たちは何もまちがっていないという、被害者の立場のままです。これは子どもを加害者にする血迷った感覚です。子どもだけを悪者にしたままで、自分たちはそのままでいいと思っている。悪さしないように刑務官のような人が常に見張らねばならない生徒たちと、一体教師はどんな信頼関係が築けるのか。そこに教育の関係は成立しません。人を育てようとする人間ならそんなことはできません。どんなに巧妙に立ち回ろうとも、見張られ、監視されている空気は子供たちに伝わります。子どもたちを信用できない学校は刑務所と同じになっていきます。不信感という敵視の牢屋に子供たちをぶちこめば、何が起きても学校と教師は傷つかずに済む。そのために子供を悪者にして、子供からも不信感を抱かれて、どうやって子供を育てるのか、教育は全く成立しません。

学校や教師が、自分たちの側にも重大な欠陥、過失があるから、子供に異変が出てきているのだと感じ、子どもから学んで自分たちを正す感受性のなさには絶望的です。


いいえ、もともとほとんど、今までの学校が子供を育てたためしなんてないのです。押し売りのような知識の羅列(られつ)の一方通行を、これまで通りに決められた通りに無事にこなして、教師は給料をもらいたいだけ。それで子供がどうなろうとも、教師のせいにはしてほしくないという望みなのです。「だって公務員なのだから、国が決めた通りやってきただけだから。私たちだけが標的にされて責められるいわれはない」と。


ユダヤ人だけでも少なくとも600万人以上は殺されたという、あのナチスの大殺戮(だいさつりく)も、手先になって実行した人たちは、ほとんどが普通の一般市民と変わらないような平凡な人たちだったという。上からの指図や命令に対しては無批判で従順に従い、まったく何の疑問も持たないで、他のみんなと同じように、ただ決められた通りにやっただけだと。頭にあるのは、人並みの出世や昇給目当てだけ。今の国内外の経済戦争もまた、これと同じ理屈で大勢が従っているわけです。


各国も気候変動であろうが何だろうが、利潤追求のためには今日も環境破壊に手を休めない。核兵器を捨てなさいと言うと、俺の国だけじゃないだろうと言い返し、排気ガス削減にしても俺の国だけじゃないと開き直る。「みんなやってることだから」「言われた通りにやっているだけ」と言って改めない。

悪い勢力に合わせて、非道な道へ進んで、破滅する危機感がないのは、自尊心がないせいです。人間なんて低俗で醜悪な存在だと思っている。だからずるずると悲惨な状況を見送り、「結果的に滅んでも仕方ない」と、そういう未熟な偽物の自分に引きずられ、潜在意識が破滅への道へわざと歩みを進めてしまう。人間は自分たちが思い描く通りになってしまうのです。しかし、低俗で醜悪で死滅するしかないほど無能なのだと思うのは、そう思って生きる者は、そういう自己否定に落ち込んだ自分が一番苦しくて悲しくて辛いわけです。そういう者が潜在意識に自滅願望や自殺願望を刻みつける。そしてそういう、自分を尊敬できない者は、自業自得で、その苦しみ悲しみの通りの悲惨な目に合う。なぜ苦しいか、なぜ悲しいかというと、本当は尊敬に値する素晴らしい神の子仏の子である自分を隠してしまって表に出さないから、不幸せな自己嫌悪の思いのままで、その通りの暗い人生を生きる。自分の本当の姿がわかっていない。そういう嘘つきの自分は、嘘は存続しえない幻ですから、大々的に嘘偽りを浄められる時が来て、そういう自壊作用の運命を迎えるのです。嘘偽りの姿がなくなって、それをいい形で迎えて、自分の尊さを初めて知る、そういう素晴らしいチャンスになることを私は祈っています。


自分を神の子仏の子として尊敬して大事にできないという事は、人間社会の一切の事が、一体何が最も大切なのか、麻痺してわからなくなるという事態を招きます。だからやたらめったら価値のないものが世の中に散乱しています。それを権利として押し通しています。権利のはき違えが多いのです。

欲を張って浪費に明け暮れ、快楽ばかり謳歌(おうか)している社会。そのくせ心の底では幸せではない。生き甲斐もない。自由とは名ばかりの無責任な生き方が、かえってストレスを増大させて、難病を無数に作り出している。

大切なことが信念として定着しない心の中って、ふらふらと散漫で、自分の価値も他人の価値もわからず、生きていることに対して祝福も感謝もできない。どうやって生きて行けばいいのか、生きづらいばかりで、人生の価値などわからず、人生が罰則のように思えて、絶望と不安しかない。


経済戦争は、人の生命や自然界の生命を軽視する、破壊と滅亡の道です。国民はその道で、右往左往してさ迷っている状態です。生命軽視の世の中では、自分の真価も他人の真価もわからず、互いに尊敬できず、怪しんで警戒し、攻撃する隙をうかがっているのが、経済社会の常識です。何よりも自分の利益を確保するためには、相手の経済活動が邪魔になる、私たちは経済競争の中にいるのです。他人(敵)を押しのけてでも自分の取り分を奪うことが先決であり、幸せになるには他人と争って勝つことが避けられない手段なのです。公教育もそれを助長する機関です。その結果、犯罪や事件、人災も天災も絶え間なく起こります。法律も科学技術も根本的解決は望めません。応急手当しかできません。

生命を大切にしない、神の子仏の子の自覚が信念となっていない世の中は、その通りに、神も仏もないような修羅場をどんどん増やしていく、悪循環に私たちがしてしまっています。


自殺も自分を殺してしまう殺人です。生命に対する尊厳がありません。親も教師も会社も比較競争の優劣で裁いて責め立て、尊厳があるような育て方を子どもにしていないからです。自殺もまた神を恐れぬ行為です。命を粗末にするのは、人生の大切さを学んでいないからです。学ばせていない学校もまた神を恐れぬ非行、蛮行です。

殺処分になりかけている愛玩動物を、見かねて可愛そうに思って引き取る人たちの活動が、時々取り上げられていますね。それで助かる動物はほんの一部です。殺処分ゼロのためには、国民全員の意識が変わらなければならないし、国民の力で学校教育の目的と内容を変えることが何よりも重要です。人は、虐待されたから虐待するのです。切り捨てられたから、切り捨てるのです。その虐待も切り捨てもこれまでの学校が率先して、すでに公然と国の仕事として行ってきたのです。どの子も皆、神の子仏の子として素晴らしい人生を生きるために生まれてきたというのに、学校はまるで人間性の殺処分場です。


神戸市立東須磨小学校で発覚した教員同士での無残で未熟な人間模様もまた、氷山の一角に過ぎません。もはや教師が人間的に信頼されるような職業ではなくなった。高い精神性と良心を守る、その代表者であるはずの教員も経済戦争の下請けとして、人間性を崩壊させ、心を病んでいるのです。

加害教諭が療養中を理由に今も表に出て来ないが、被害教諭に対しては事情聴取の一部に「かわいがってきた」と主犯教諭のコメント。ちぐはぐで筋の通らない意味不明な言い訳。子供のいじめは実はこうした大人社会の模倣なんです。「かわいがる」というのも、チンピラ風に言うところの、暴力です。暇つぶしに、気晴らしに、腹いせに、相手の弱みにつけ込んで乱暴することです。映画やドラマでも、ヤクザの下っ端(したっぱ)が、「かわいがってやるぜ」とよく使うセリフ。学校の先生のレベルがそこまで落ちぶれてきた。


東須磨小側が保護者会で提示した児童ケア対策も、事件現場となった家庭科室を改修するとか、凶器となったのが激辛カレーだったため、給食のカレーをやめるとか、的を得ない幼稚な発表ばかりしています。うまく事件の収拾を図り、なだめて幕引きになるどころか、ますます保護者の反感を買っています。子供を安心させるためには親を納得させなければならないのに、いつも火に油を注ぐことしかしないしできないわけです。国の最高学府、舌を巻くようなむずかしい大学を出ていながら、人を教育する責任重大な仕事に関わっている人たちの姿勢とは思えない、毎度の何たる稚拙(ちせつ)さ。長年、経済社会の下請けマシーンですから、人間としてどうふるまうべきか、そういうことがとっさにわからないような、わけのわからない生き方になってしまっているんです、まわりの肩書の立派な偉い人たちも。どこか他人事で、自分には責任がないという顔ばかりそろっていて、うやむやになっていく。

折しも、2018年度は、学校でのいじめや虐待が過去最多件数になったと、新聞が書き立てています。

学校で教師も子供もいじめや虐待の犯罪にあえいでいる。学校が人間の生きられない、人間が育たない場所になっている。国も学校も国民も生まれ変わることをせまられ、うながされている、天催(てんさい)。


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理性で生き抜く有志が求められている。 令和元年10月12日(土)


毎週いくつか、ドキュメンタリー番組がある。

たびたび取り上げているのは「性暴力被害」。

父親から娘に無理矢理。教師から女生徒に無理強い。上司や知人からだまされて、強制的に。

被害者は突然の魔の手に心身が硬直、「まさか」「そんなはずがない」と混乱しているうちに、その隙(すき)を狙われてつけ込まれる。社会的地位などの信頼される立場を利用する、悪質な性犯罪者。


日本の敗戦のどさくさに乗じてソ連が満州に攻め込み、野蛮な階級のソ連兵に10代の娘たちが性接待を強いられたと、被害者の証言が幾度も放送された。被害者の中には、すさまじい性暴力がもとで病死や自殺も大勢あった。


男が立場的に圧倒的な力の優位に立つ時、欲望のままに女性を激しく傷つけ、辱めて、死ぬほどの目に合わせる。今なお、世界中で起きているレイプ、強姦だ。

被害者の悲痛な心の傷。その後遺症は事件後も長年にわたり、被害者の人生に大きな障害となって苦しめている。


人間の肉体に性欲はつきもの。その道具をいかに使うべきか、道具を生かすのも殺すのもその操縦方法にかかっている。高校生の時、保健の教科書だったか、人間の性欲を一匹の獰猛(どうもう)な犬に見立てた図が掲載されていた。つまり、放置していれば、欲望のままに暴走するであろうとめどない欲情を、「理性」というリードでしっかりつなぎとめて、迷惑にならないように大人しく従順にしつけるのが人間なのだと、教科書は説きたかったのだろう。しかし、理性の教育など、公教育にはない。家庭にもない。人間を人間らしく育てる教育がないのである。

現代人は、抑制のきかない性欲という暴れ犬をかかえて、躾のひとつもできず、調教のひとつもできず、暴走する自己の野獣に振り回されているだけだ。どんな犬(欲)も指示命令を待つ身であり、主人の言う事には喜んで従う。しかし、主人であるはずの人間が、自分の幼稚なわがままを聞くような、自分よりも下位の召使いであると見ると、欲の暴走には拍車がかかり、やりたい放題になってしまう。

そうして、「この立場でこちらの都合よく好きなように相手を扱えるぞ」と、そういう隙を一瞬でも相手の中に見つけると、欲望は丸出しになってしまう。相手の女性を自分の奴隷のように考えて、まるで使い捨ての玩具のようにひどく扱い、「自分が性処理機にされて、自分が汚いドブになったように感じた」と被害女性に言わしめるのだ。被害者は自分を責めぬいて、この自己否定を立ち直れない。生きながらに死刑になったような、まさに性犯罪は「魂の殺人」である。


「理性」とは、人間の本質で、「仏性・神性」のこと。それは、教育によって掘り起こされ、磨かれる。理性とは、人間の深いところから引き出される宝物です。学校の授業は本来そのためにある。

理性が人生の主人なのであり、理性が、幸福を人間社会に築く主導権を持つのです。性欲という道具も、理性という主人がその道具の使い道を熟知して適正に管理し、上手に賢く使ってこそ、人生に役立ちます。せっかく与えてもらっている肉体なのですから、正しい用途に使用することで、人生の喜びは飛躍的に増大します。

言うまでもなく、性交渉は、愛し合う夫婦のためのものです。それは夫婦生活の中の大事な部分です。それ以外には考えられません。なぜなら妊娠する営みだからです。幸せな家庭生活を実現し、子を産み育てる厳粛な使命が、夫婦にあるからです。


だから、肉の快感だけを目当てに女性を漁るのは本末転倒です。セックスが目的で恋愛したり、結婚したりする。これは男性側にとって「魂の自殺」です。相手に飽きれば簡単に捨てて、新しい女性に乗り換える。これを繰り返す人生は、性欲に引きずられているだけで、人間とは言えない。生きながらの自害です。


性欲処理のためだけに女性を捕まえて乱暴し、快感だけを貪(むさぼ)ろうとして、同じ人間をドブのように汚染して虐(しいた)げた男の人生。

鬼畜(きちく)、その末路が幸せであるわけがない。自分の欲望のために人を虐待するその非人間性ですね。それは必ず今後、報いを受ける。しかしね、報いを受けねばならないような、犯罪を起こすようなみじめな人生を、社会や学校教育が絶対に誘発してはならないんです。性欲さえ正常に取り扱えない男性を輩出(はいしゅつ)する、そういう学校や世の中の荒(すさ)みよう、ここに原因がある。


経済戦争社会の下請け、学校。競争が当たり前のように教えられて、自分の都合や利益を獲得するためには、人と競って押しのけるのが当然の世渡り術だと教えられているわけです、どう見ても。

ガラクタの山であり、人の成長を阻害する、消化できない石の塊(かたまり)━━ 受験知識。その暗記量を競い、順位を争う。勝ち上がった者は下位を見下し、優越感に浸る。それが幸福感だと教えられて錯覚してしまっている。勉強の楽しさも他者に競い勝つことだと勘違いしてしまった。負けた者も上位との比較で劣等感に苦しみ、自己否定、自己蔑視の暗黒に落ちる。それがいつしか世の中への憎悪となり、復讐心となる。つまりこれは、学校が仕掛ける内戦なのである。学校が戦争の火種をまきちらし、人間性を破壊してしまう。

学校の方針に沿って、家庭でも追いつけ、追い越せと、さんざん子どもは命じられているわけです。学校が作った成績表を親が見て、親は子供の優劣を判断します。親から怒られて、他人よりも順位を上げることをさんざん言われて、点数や成績表で親から子どもは責め立てられる。寝食を保障してもらっている親から言われるのですから、それは至上命令です。なかなか逆らえない。一種の軍隊です。就職したら今度は社長の命令が絶対になる。学校も家庭も世の中も、他者との利潤争奪戦争に子供たちを駆り出し、戦場に駆り立てていく。こうして戦火は拡大して、自分さえ儲かっていればそれでよいという私利私欲がまかり通る。人間性などとても保てない状況です。


人間性が保てない社会に、性暴力だけが消えうせることはない。


人が人として人らしく育つことを何よりもどんなことよりも優先する、聖域と呼べるような学校が必要です。ケダモノではなく、立派な人間として卒業させなくては、世の中も変わりません。人らしい愛と知恵を育てて伸ばし、その力を親が信じてあげないでは、子供の人生は幸せにはなりません。自分の都合や快楽で人を傷つけて喜んでいるような人間にしてはなりません。

たとえすぐに校舎や教室が手に入らなくても、自分たちの子は自分たちの手で育てて、この世を人間らしく生きぬかせようと、そういう気概を持ってその意志を実現すべきです。「みんなで素晴らしい学校を作りましょう」と、有志が集まってくれば、私も尽力したい一人なのです。


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大きく舵(かじ)を切るために。 令和元年10月8日(火)


日本国憲法で国民に許された自由。

言論・思想・宗教など、幅広い。しかしそれは、何が一番良いか、どうすることが一番優れているか、国民自身が判断して、全員が同じものを身につけて、そこに責任を持つことで、国民が国全体を幸福にする意志がなければならないのです。政治も政党もその意志に沿うものにすぎない。


自由だから何を言っても何をしてもいいというのではありません。また、個人の好き勝手や私利私欲を野放しにするために自由を保障しているのではありません。全員が同じ最高峰のものを学んで身につけて、そこに責任を持つし、責任を全員に持たせるという事が民主主義です。


国民全体が幸せに生きるために、保証された自由をどう使うかという事には、国民はあまりにも意志薄弱で、無関心です。で、今日も己の利潤獲得のために我先に経済競争に奔走し、バラバラに争ってまとまりのない野蛮な群れの状態を続けてきました。学校教育が経済競争社会の下請けとなり、人間の幸福を考えて行動するような、主体的な人を育ててこなかったから、大人になっても与えられた自由を使えない。自分さえ得になればよい。それが深刻です。

気がつけば世の中は問題山積で、何の策も見出せないでいる。負の遺産ばかり増やしている。


兵器の戦争も経済戦争も、戦争では人間の生命や立場を傷つけられ、自分の人生をゴミのように犠牲にして投げ出さねばなりません。幸福をかなえるための主体性のある人を育てるのではなくて、無理矢理に殺し合いをする兵隊を無理強いして作り出すのが戦争です。


戦時中、日本軍に入隊すると、支給された靴に自分の足を合わせなければならなかったそうです。いちいちサイズを聞いて全員に合う靴を軍は用意しない。痛かろうが、不快であろうが、我慢して軍のやることに自分を合わせなければならない。憲法のある現在も、国民の自由や権利が文面においては保障されている。しかしそのことを国民が主張して、自由と権利を使う意志を全員で示さなければ、憲法なんて絵に描いた餅で、何の意味もない。世界的な経済の戦時下においては、どの国の政府も、選挙で首が変わっても、政府が非人間的な戦争を国民に強要しているのはどこも同じ。政府は、経済戦という重くていびつな軍用靴に早く足を通しなさいと強制する。学校はその調教訓練所。最初から教えこむことがすでに決まっている。子どもに寄り添って、子供から学んで、子供に合わせるつもりが最初から教師にはないのです。そして無機質なガラクタのようなテストのためだけの受験知識を強制して、その覚える量によって同じ人間をふるいにかける。これが経済戦争社会を支える兵隊づくりの始まり。現場で子供たちの身に何か事件があった時も、教育委員会も含めて教師陣がまるで被害者であるかのような姿勢でいるのも、この特権階級的な体質のためです。学校が子ども本位の子供のためにあるのではなく、毎日子どもに何か鋳型のようなものを押し付けて、上から一定の形に押し込めようとしている。そこに何か問題が出てきても、教師も政府で決まったことを決まった通りに教えているだけで、現場の指揮官、上官として、「何が悪いんだ」という顔をしている。子どもの事を考える立場にないわけです。


少し前、学校の名物行事で、両端に火の玉をつけた棒を振り回すダンスのようなもので、ひどい火傷(やけど)を負った子供の事が報道されました。その子にも落ち度があるような意味合いのコメントを出した先生もあったようです。その行事を何年も続けてきたのにという自負もあるようなのです。

それに続くような形で、運動会の組み体操の練習でケガや骨折をした子どもたちが大勢いると、今年も取り上げられています。

本当に子供のためにやっていますか。子どものためになっているのですか。ということなんですよ。やらせる方は、慣例になってしまっていて、いちいち深く考えないで、多少の危険も勉強のうちだと思っているのは、大人側のこじつけです。


今の公教育の前身として、軍の軍事教練の影をいつまでも引きずっているのが日本です。上からの命令には何でも従うという、その戦闘的な統率力を国内外に誇示する軍事パレードのような見せ物が、現代教育の名のもとに今も脈々と残っているのです。しごきもスパルタも体罰も、戦争で勝つことが至上命令だったころの名残です。戦争に勝つことが国民の何よりの成果であり、幸せになることだと信じさせていた時代の風潮が今も生きている。それを変えることができていない。

私のこの書き方にムカッとくる大人は、会社人間として活躍されて、認められて、そこに自分の存在意義を感じていらっしゃる。まわりがあなたの事を素晴らしいと拍手喝采する、あなたは経済競争社会の生んだ作品なのかもしれない。そしてそういう作品は、どうだと言わんばかりに、敬えとばかりに、授与された歴戦の勲章と共に後世にも語り継いでもらいたいという、自己顕示欲を感じます。

若い世代には、自分の正しさを示そうとして厳しく高圧的な言動を浴びせるタイプなのかもしれませんね。あなた方はそれで満足なのでしょうか。自分の生きざまを当たり障りのない華やかなところだけスポットを当てられたまま、有頂天になっていられますかねぇ。ただ遮二無二(しゃにむに)突っ走ってきた経済競争が生んだ大きな暗部(あんぶ)について目をつぶるなら、人としては片手落ちの人生になるのではありませんか。私たち大人が正しければ、今こんなことになっていません。でも、そこに気づいたなら、反面教師として、決して行ってはいけないところを実感を持って伝えて、子供に示すことはできます。経済社会のプライドなんて驕(おご)りです。


政府など、お上の方針で調教されて訓練された子供たちは、国政の恣意(しい)的な作品です。そのことについて誰も何も問わないで、無邪気に無関心にやってきたわけです。これからもこのままやっていくのですか、ということなんです。

子どもは、誰のための、何のための作品なのか。政策の勝手な作品にしてしまってよいのか。ということです。

親はそれを鑑賞して、ああ、大きくなったな。たくましく成長したなと思うのでしょうか。真の人間の成長ってそういう事なのでしょうか。

見ていてスリリングで危険が付きまとう出し物をやらされて、言われた通り何でもやる姿勢を見て、大人は自分たちの通ってきた道を子どもたちも通るのを見て「同じだぁ」と、安堵(あんど)するのでしょうか。それはどんな安心感なのか。安心していいのか。

あえて危険な組み体操を選択してまで、「子どもたちに一体感、達成感を持たせるんだ」という教育委員会や学校は、普段の授業や学活ではそれをまったく得させていないと、白状しているようなものだと思うのですが・・・。

まぁ、そういう細かいことをいちいち考えないで、今まで通りに命じられるままに言われるがままにやっていく姿勢で国民は今後もよいのでしょうか。私たちの生きてきた社会の在り方に永続性はありません。それは豊かさと便利さの仮面をかぶった破滅型の社会です。すでに大きな落とし穴が見えているのです。同じ道を子供たちが歩むことも歩ませることもできないと、思わないのでしょうか。


世の中は、私たち大人のせいで、たくさんの問題が手つかずです。これを心から謝って、大人が生きる姿勢を変えることが先ですよね。子どもたちに考えても考えてもわからないような、たいへんな課題ばかりのこしてしまった、そういう時代の分岐点に立って、自分たちはこのまんまでいいんだ、死のうが生きようがあとはお前たちの勝手にやれというのでは、虫がよすぎます。悪いところは頭を下げて、今からでも一緒に考えて改善していくことが、求められています。お上から命令された通り言われた通りにしていればいいという、無邪気で無関心で無神経な時代は終わりました。子どもの顔に向いてください。子供たちと共に考え、学んでいく、国民が主導していく共育の時代です。私はそう思います。


子どもたちの中には、人間らしく成長しようとする不断のエネルギーが、人間として伸びる方向へどんどんたまっています。けんめいに芽を出そうとする花の種のようです。その生命力を解放して、生かしてやり、成長を助けるのが教育です。教育とは、水と光のような養分です。人間の勉強が不十分で、人間になる意志さえもない教員にはできる仕事ではない。人としての栄養を求めている子供たちに対して、そこへ一定の決められた受験知識を詰め込もうとすると、それが何の値打ちもない、成長には何の役にも立たない物であることは、すぐに子供は察知します。なぜって、子どもには人らしく成長することが、そこに命がかかっているから、すぐにわかります。学校が食べられない物を強制して食べさせようとする、拷問を強要する場所だという事はすぐわかる。それでも教師が怖いので、子供は我慢して辛抱(しんぼう)して飲み込みますが、ほとんどが石ころです。無理矢理食べさせると、拒否反応を起こします。消化できない物を詰め込まれて、人としての成長を妨害されて、まともな人間になるわけがない。苦しいのは子供たちです。登校拒否は自衛行為です。学校が子供の生きられない場所になっていることを示しています。無理に通わせれば自殺します。

学校に来てもいじめたり、虐待したり、非人間的なことをする子供はすでに精神的におかしくなっています。それは、汚染された海や川の悪影響を身に受けて、奇形の姿形で泳ぐ病的な魚と同じで、深刻な症状です。汚染されている環境だと教師が気がつかないのは、教師もすでに奇形化している先輩であり、非教育の現場をそのまま維持管理する、言わば環境破壊を起こしている企業の現場主任なのです。


30〜40代の複数の教師が加害者となって、教員同士でのいじめ、虐待がニュースで話題になりました。彼らも子供の頃、学校のカリキュラムにまともに取り組んだ優等生であり、エリートなのですから、精神的に破綻していても当然です。学校の在り方に順応してしまった結果が彼らなのです。そうしなければ教員になれなかった。だからいじめや虐待の環境を助長はしても、根本から改善することはできません。その立場にはいません。彼らは石を食べてきた者なのであり、今度は石を食べさせる身として返り咲いたのです。今の大学とはそういう場所です。

校内では、優等生はまともな感受性を捨てて、血の気の無いロボットになって学校側に従っています。良い兵隊にはなるでしょうが、戦場に幸福はありません。

最も恐るべき事実は、そういう子供たちのつらい状態に対して、教師が最も無神経な立場にいるという事であり、教師が何も感じないで、わかっていないということです。


学校からのエスカレーター式社会ですから、役人も議員も政界財界、大企業のお偉い様方、これはみんな、ほとんど優等生出身です。世間もそう見ています。各界のリーダーですからね、高い社会的地位というのは、学歴や職歴には申し分のない輝かしい経歴がある。しかしこうした人たちが、たくさんの人間を従え、たくさんの人間を動かして、やってきたことで、現在の危機的な状況を招いている。それを当の本人が認めない。どんな失敗をしても責任を取らない。だからこの国は方向転換できないのです。

先の大戦で日本は推定300万から400万の人命が犠牲になった。それはほとんどが、敗色が決定的に濃くなってからの犬死だった。国民の玉砕(ぎょくさい)、それを当然のように考えるのが、優等生として扱われてきた特権階級の無神経体質です。全体が善い方へ向かうには自分が今どうしたらいいか、そういう、全体のために自分の能力を差し出して使うような、勉強も経験も積んでいない。自分の事しか頭にない。地位や名誉欲しさに机上(きじょう)のテスト対策しかしてこなかったから、パイプ机の一枚分しか自分の世界がない。愛も知恵もあったものではない。姑息(こそく)で利己的な世界です。人間としての責任を感じる人格など育っていない。エリートとは、最も未熟な国民なのです。学歴も職歴も人格を保証するわけではありません。むしろその輝かしい経歴が、恥ずかしい代物(しろもの)になる時が来ているとさえ思います。

一例としては、莫大な浪費や環境破壊と言えるような、無数の施設や建造物がいたるところにありますよね。中には廃墟と化して、無用の長物となり、放置されているものもある。人としての愛も知恵も全く感じられないことに巨費を投じてきたわけです。「発展」という美辞麗句(びじれいく)では覆い隠せない、失敗や混乱、危機を招いていることが、知れ渡ってきているのが今世紀です。そういうとんでもないミスを、これからも口をそろえて「想定外」と言うでしょうね。あまねく神経を行き届かせるような、気働きなど絶対にできないのだから。


どなたが優等生の権威と肩書を返上して、今までの無責任、無神経を心から謝罪し、勇気を出してこの国の方向転換を提案してくれるか、まだ一人もいません。要するに、犠牲を出してまで虚構(きょこう)の繁栄に狂奔(きょうほん)してしまうのは、人らしい感性をすでに失った、経済拡大競争専用ロボットというしかない。確かにロボットは失敗を認めて出直すような人間らしい誠意はありません。人を刺したナイフが反省しないのと同様に。


あたたかな愛も、みんなが救われる思いを感じる知恵も、まったくないような、そういうリード、やり方は、人らしい感性が枯渇(こかつ)している人間を学校が作っているからです。経済戦争社会の上官である教師が、食べなさいと言った石を食べてしまうところから始まっています。それに逆らって正直に抵抗する子供のほうが、「不良」や「落第生」、「劣等生」という無視、区別をされますが、よほど自分の人間性を守れる。悲しいかな、人間性を売り渡すことで優等生になった子たちが、将来的には指揮権などの権力をにぎってしまう。勢い、ミスリードは続いていく。こういう構図では、日本の再生再建は容易なことではないと思います。だから国民も指示待ち・提案待ちの奴隷(どれい)体質、依存体質ではいけません。住んでいる地域において、これからのこの国に大切で正しいと思うようなことは、自分とみんなを信じて、自主的な発信や呼びかけなどの活動はお互いに必要です。自由と責任を行使せねば。それは国民の義務です。

自分の思っていることを発言していくという事は、「人間とは何か。いかに生きるべきか」人間として大事なことを知っていく学びがあってできる行為です。指示待ち、提案待ちでは、言われてその通りにするだけの人形です。そこから脱して、自分たちで考えて生きていく時が来ています。


平和や幸福をかなえるための思考力や行動力などを国民のために育てようなんて、公教育の中にはない。すべての子どもにその能力に応じて等しく教育を受ける権利があると、憲法には書いているんです。しかし実際は、将来的に経済戦に向く、会社の言いなりになって稼いでくれる子だけを作ろうとするし、そういう要領の良い、都合のいい子ばかり優遇するし賞賛する。多くの人たちを足蹴(あしげ)にして勝ち抜いて、奪えるだけ奪い取り、儲けて贅沢三昧(ぜいたくざんまい)することが一番偉いかのように仕向けてしまった。それがこれまでの公教育の生んだ地獄のような世の中です。

ひとしく教育を受ける権利とは、社会でひとしく幸せになるための権利でもあるが、戦後一度として実現しないままで、それもまた「憲法」という絵に描いた餅である。人が競い合って奪い合い、比較して優位な立場に立つことが最高の幸福だと吹き込まれてきただけなら、それは戦中と変わらぬ戦争賛美なのであり、軍国主義であり、真の戦後復興も文明発展もありえない。日本はまだ焼け野原のままである。


自分も他の人も全員が心地よくはける靴で人生を歩きたい。もう争いたくない。いじめも虐待も人殺しも自殺も環境破壊も、非人間的な戦争状態はもうたくさんだ。だから、軍用靴ではなく、本当に必要な靴は自分たちで作ろう。ぜひ作らなければならない。ぜったいに作りたい。そのためには最高峰の学問、教育、衣食住が何か、どうすることか、国民自身が行くべき道を決めて、大きく舵を切らなければならない。


教育・宗教・哲学は、林竹二(はやしたけじ)先生、谷口雅春(たにぐちまさはる)先生、そして、農業などは福岡正信(ふくおかまさのぶ)先生らが、多くの著書などを私たちに遺して、すでに国民の生きるべき道を示してくださっている。もちろん私の本、「加杜矢の寓話全集」もお忘れなく。


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雨が降っても風が吹いても。 令和元年9月22日(日)


自然の働き具合がどんどん異常になり、以前よりも凶暴に感じる。激しくなり、強烈、猛烈になった。つらくなってきた。こわくなってきた。というのは、世界中で聞かれること。原因は何でしょうか。原因は私たちの心。

穏やかで平和な心が地球環境の安定につながります。私たちは自分や他人に対する愛を今一度大きく強く呼び覚ます必要があります。自分の事を大好きになって、信じることが出来て、大切に感謝できるようになれば、他人や世の中にも同じように接して愛することが出来ます。自分のこともどうでもいいし、他人もどうにでもなればいいやという、投げやりで荒れた心は、つらく当たる憎しみです。その鬼のような人でなしの心が、自然界の異変や世の中の事件事故になって映し出されます。そのことを、みんなが自分のせいじゃありませんという顔をして、これまで通り「普通」に「平々凡々」にとらえてしまうのではなくて、重大な心の問題として扱い、心の出直しを図らぬ限り、これからも同じ災難に巻き込まれる自業自得の不幸は避けられません。不動の素晴らしい愛を心に点火するために、私たちは本気で学ばねばなりません。それは成長の喜びでもあります。


アマゾンの森林火災に代表されるように、人類は経済戦争の最中であるから、自国の利益のためには手段を選ばない。経済の低迷が続くブラジル政府は、農地や鉱山の拡大を推奨(すいしょう)するし、だから野焼きにも目をつぶる。「地球の肺」と目(もく)されている大森林も破壊してかまわない。それを他国から非難されると、主権国家に対する過干渉(かかんしょう)だと逆ギレします。

これはブラジルに限ったことではありません。お金もうけのためには各国が競争相手なのであり、回りが敵になり、回りを打ち負かそうとすれば、人の生命も自然の生命も傷つけ、壊してもかまわないという、私利私欲の戦争が人類史の中でまったく終わらないのです。

私たちは今、どこにどうしていても、戦時中の心持ちでいるはずです。その過酷でつらくてこわい思い、監視し合うように他人と敵対している思い、それらが世の中の全てに伝染していて、私たちの心は、世相という鏡にはっきりと映っている。私たちは私たちの心の姿を、身の回りの事件や自然界の姿形を通して、私たちの心の状態を突きつけられているし、自分たちの心の中身をはっきりと日常生活で体験しています。


雨が降っても、風が吹いても、誰かがふと通っても、そこに恐ろしい、私たち人間社会の激しく争う姿を見るわけです。そのこわい形相は、時がたつにつれてどんどん力を増して、災害を大きくします。

世界は想念の結集だからです。思いも念も同じものを持続すればどんどん大きくなって、それは大規模な形や出来事になってあらわれます。不幸ばかり、問題ばかり、こんなに引き起こして、勝ち負けの争いでは幸せになれないという事を人類はいつになったら学習して、愛を持って仲良くすることを肝に銘じるのでしょう。


自分の子を死ぬまで傷つける親たちも、私利私欲の競争の中で人間性を失って、人間らしい心を麻痺させた結果です。「虐待」とは、虐待されてきたから虐待するのです。「いじめ」にも同じことが言えます。間に合わせの法整備などは見せしめの罰則。その場しのぎの応急的な対応ばかりでは、根本からの解決はありません。事件を起こしたり自殺したりする人をずるくて卑怯で弱いのだと一方的に裁くことも無責任です。そういう人たちを出してしまう社会を作っているのは私たちであり、明日は我が身です。自分や自分の可愛い子供が被害者にならないとは言えない世の中を続けている責任は、私たち全員にあります。死ぬほどむなしい、死ぬほど苦しい、そういう世の中にしていることに対して鈍感で無神経過ぎます。


心を変える時機になっていることを教えられているのです。このままではいけないと。

何もかも変わっていくべき時機であることを告げられています。自然界の動き一つ取って見ても。世の中の事件一つ見ても。


大勢の人の心が安らかになり、平和と幸福で心がいっぱいなら、それは気候や自然界にも全てに伝染して、私たちの心の通りに穏やかに健やかに豊かに活動してくれます。ストレスが個人の神経を狂わせ、健康を害するように、人類の心模様に地球が影響を受けるのです。気候も自然界も地球の健全な営みは、人類の心に左右される生理現象と言えます。経済戦争の生きづらいストレスは、同じ人間同士を敵にして戦争するばかりではなく、地球の環境を刻一刻、不健康にしていることは間違いのない事実です。


他国の子供をだまってさらってきておいて、それを人質にして有利でお得な政治交渉をしようなんて、そういう酷(むご)い戦略を引き出すような経済戦争を私たちは続けるべきではなかった。手段を選ばないのが戦争なのですから。

広島・長崎のあとも、利害損得を争う戦争は終わっていなくて、今も続いているのです。だから核兵器もなくならない。そして、家族がいつまでも会えない。消息さえつかめない。戦争だから。

外国の立場に立てば、この経済戦の真っ只中、何の見返りもないのに、どさくさに乗じてせっかくうまく奪い取った領土を返す意味もありません。


お金の損得で争い合い、生きていられないような非人間的なこの世の中を絶対に変えてゆくことが私たち全員の課題です。

お金は単なる道具です。しかし今は、その道具を生かせないで、道具に振り回されて自他を傷つけ苦しめる、お金を人々や自然界を殺す凶器にしてしまった。私利私欲で愛のないところには、全ての物が戦争の武器になります。

かけがえない全ての生命。人間の価値、自然界の価値。それをこれ以上低めて、粗末にしないために、愛するという事をもっと考え、愛を人生の中心にする生き方をして、その幸福を広げることが大事です。


これを書いている私自身、日本の高度経済成長期に生まれ育った身です。日本も一度は経済戦争のトップに走り出て、便利で贅沢(ぜいたく)で文明発展の華やかさにのぼせて酔いしれました。しかしそれが長続きしない、永続不可能な社会であることも知れ渡っています。今の日本のやり方──自給率の低さと莫大な浪費では、地球が何個あっても足りないという試算もあります。だから経済大国なんて、乱痴気騒ぎに過ぎません。そうして第二の敗戦とも言える不景気極まりない生きづらい社会にしておいて、その処理を子供たちに丸投げしようとしています。


私が「愛」と言ってみたって、「愛」の理解も同じではありません。経済戦争の中では、他者に競り勝つことが優先され、賞賛されてきました。愛する行為は、ただのお人好しの犠牲だと軽視され、見過ごされてきました。だから愛する体験が乏しく、愛する行為は難しいことです。そのために、人を思いやって助けること、救うことが一体どんなことなのか、多くの人がわからないままです。誰にも教わることが出来ません。親も先生も戦火をうまく潜り抜ける方法(処世術)ばかり説いている、右往左往するご利益信心を教える先輩の兵隊に過ぎません。しかし、我が子だけが助かってうまくいけばいいという私欲では、戦争を拡大しこそすれ、戦争を終わらせることはできず、全員が救われない事態を招きます。


「人が愛する」という、その、そもそも人が何か、わかっていない状態です。人が何かわかっていないのに、人が愛し合うとはどういうことか、わからない。そこまで世界各国、各民族は幼いのです。報道で垣間見る、各国の小競り合いは、一国の偉いリーダーたちが先頭に立って為しているとは思えないほどの幼稚で低俗なやり取りです。リーダーって私たち人間の代表ですよね。一番偉いはずなんです。尊敬されるべき人たちであるはずです。それがまだまだ情けない。魂が未熟なのです。権力闘争しかやっていない。権力保持しか考えない。彼らも多くの国民と同じで、自分の利益を上げることに躍起(やっき)なのです。国民全員が優れた成長を遂げなければ、優れたリーダーを生み出すこともできません。


長い間あちこちで苦しい問題を抱えたまま、それを先送りにしてきた現代は行き詰っています。為す術もなく、疲労の色も濃い有り様に見えます。「また世界大戦が起きるかも」とか、温暖化や資源浪費で「地球もこれ以上は持たないのではないか」とか、いたずらに絶望して、人類滅亡の恐れや不安も拡大しています。だから、人間とは何か。どう生きていくべきなのか、かつてのどんな時代よりも強く問われています。その道を見つけて行くことを望まれています。人間なのだから人間らしい道を行く。二つも三つもありません。ただ一つの人間の道です。確実にその道を私たちが歩いていくことで、少しずつ世の中は変わっていく。私たちも世の中も成長していく。それが新時代、令和(れいわ)からの自然な流れのような気がしています。



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